2017年03月01日(Wed) STORY編集部

STORY4月号・私たちのチャレンジ・ストーリィ「読者の証言全文掲載」

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Voyager40 今までもこれからも、誰もが“福島”の当事者です

STORYは、東日本大震災が発生した月に発売される
4月号の「連載 私たちのチャレンジ・ストーリィ」で、
震災をテーマに取り上げるのが恒例です。
今年は福島にスポットライトを当て、震災から丸6年経つ
原発、放射能、避難、賠償などの現状、問題点についてお伝えしています。
弁護士の河合弘之先生、ジャーナリストの吉田千亜さん、
そしてフリーアナウンサーの山本モナさんの鼎談に加え、
福島で被災した読者の方々のメッセージを掲載させていただいています。
紙幅の関係上、誌面では掲載できなかった分も併せて、
このブログでは読者の方々の今の暮らし、思いを
全文掲載させていただきます。

そして、鼎談にご協力いただいた河合弘之先生が監督された映画、
『日本と再生 光と風のギガワット作戦』が
3月10日(金)まで渋谷・ユーロスペースにて公開中です。
自然再生エネルギーの今とこれからがわかりやすく解説されています。
是非、足を運んでみてください。
http://www.nihontogenpatsu.com/

大熊町の牛舎にて。写真を撮っているのはフォトジャーナリストのShino Yanagawaさん。

今でも終わりが見えない風評被害。
加害者の国と東電には「仕方がない」と思ってほしくない
――樅山智美さん(サロンオーナー・38歳)

あの日を境にいろいろなことが変わりました。私の主人も実家も、福島で果樹農家を営んでいます。風評被害は今も感じるし、終わりは見えません。
放射能汚染が世間を騒がせるようになって以来、福島の人ですら「現地の農作物を食べていいのかわからない……」という雰囲気になりました。不安に思っても、家族の手前、同居している88歳の祖母が丹精込めて育てた野菜を子ども達が口にするのを「食べちゃダメ!」とは言えませんでした。主人の果樹園の売上も半分くらいに減ってしまったのはわかってはいたけれど、夫婦で敢えてそれを口にはできませんでしたね。
原発事故後の選挙で、福島のいくつかの大きな市で市長が代わりました。福島市もそうでした。東京で仕事をしていたにもかかわらず停滞していた地元・福島のために帰郷し、「命を懸けて僕が福島を僕が変えていきます!」と演説していた立候補者の言葉が胸を打ちました。政治に興味がなかった私も子ども達と一緒に応援しました。そして「福島を変えていくために、声を上げていかないといけない」と思うようになりました。でも福島の人って優しい? 諦め? 前向き?なのか、みんながそれぞれの理由で怒りを心の中にしまって頑張っている気がします。
震災の年に入学した我が子も小学6年生。昨年、震災後初めて午前午後フルで運動会ができました。校庭の放射量の問題で、運動会中止に始まって毎年数時間ずつ延び、午前中開催になり、今年はお弁当の時間ができるまでになって感動しました。そんなことがいかに幸せか、当たり前に過ごせる有難さを感じています。
最近では風評被害で売り上げの減った農家に対し賠償金を出し渋ったり、支払いを先延ばしにされることもあるようです。その賠償金もここ1、2年で打ち切られるかもしれません。もちろん農家の人たちも「前向きに自分たちで頑張っていこう!」と新しいことに取り組んでいる方も大勢います。けれど、福島の農産物の風評被害は終わらない、終わりが見えないんです。私達は決して+αなんて求めていません。賠償金とは風評被害によって落ち込んだ収入の補償。私達は「仕方がない」と思っても、加害者側の東京電力や国には決してそう思って欲しくありません。

浪江町にある請戸小学校。津波による甚大な爪痕が残る。

せめて子どもが学校を卒業するまであと1年、
ここに住まわせてもらえませんか?

――山田陽子さん(仮名・パート勤務・44歳)

‘11年3月14日、3号機の建屋が爆発。自宅は20km圏外でしたが、自衛隊員から各家に対して、すぐに避難するよう指示があったため、福島市に一旦避難。その後、夫を福島に残し、子ども達と東京の借り上げ住宅に避難しました。当時は学校でのいじめがあったようですが、「悪いことをして逃げてきたわけではないんだから堂々としていなさい」と言い聞かせ、手を引っ張って登校させたこともありました。ここに来て6年、地域に受け入れてもらい、子ども達にも友達がたくさんできて、ようやく普通に生活できるようになっていました。ところが、今年4月からの自主避難者の住宅支援の打ち切りが決まりました。3月中に家を出なければならないというんです。一度は福島の自宅に帰ることも考えました。除染後の敷地は平均すると0.5マイクロシーベルトでしたが、線量が高い場所は5.4マイクロシーベルトもあり、数値が高いところだけ再除染してもらいたいと行政に掛け合いましたがダメでした。さらに、子ども達のうち2人が甲状腺検査で今年初めて嚢胞が多数見つかったんです。こんな状況で家に帰れますか? 幸い転校せずに通える公営住宅に優先入居できることになったのですが、「福島というだけで優先されていいわね」とか「お金があるからたくさん働かなくてよくていいご身分」といった嫌みが聞こえてきました。大人のいじめですよね。今になって、引っ越したころ、子ども達はどんなに辛かっただろうと思い知りました。子ども達は「また引っ越す」と学校で言ったところ、ちょうど福島の避難者へのいじめの報道があったときでもあり、「え? お前、福島だったの?」と友達に言われショックを受けて帰ってきました。引っ越しが引き金で、子ども達に何か起こらないとも限りません。中には多額の賠償金をもらっている人もいますが、みんながそうではありません。うちは賠償金が出たのは1年だけで、家財を一切持たずに家を出たので生活準備に全て消えてしまいました。そんなことは周囲の人は知りません。それに公営住宅に住む要件には収入の上限があるので、もっと働きたくても働けないんです。元々、「避難しろ」と言われて出てきたのに、これって自主避難なんでしょうか? 行政はあまりに子どもに冷たいと感じます。子どもを守るという視点で、もう少し柔軟な支援をしてくれてもいいのではないでしょうか?
子ども達が卒業するまであと1年だけ、有償でもここにいさせてほしいと行政に申し出た結果、ようやく1月に個別面談が叶い、あと2年、有償で住み続けられる方向で調整が始まりました。賃料は高く大変ですが、支援してくれた方々のお陰だと感謝しています。でもこれで「解決、終了」というわけでは決してないんですよね。

津波による被害で今も更地が広がる浪江町・請戸地区。

わざわざ理由など聞かれません。
家を購入した瞬間に避難終了とみなされます

――林 花緒里さん(仮名・主婦・43歳)

避難指示の境界線は、福島第一原発から半径20km。半径19kmの場所にある実家は避難を余儀なくされ、住んでいた兄達は我が家に退避しました。その我が家は半径21kmでぎりぎり屋内退避区域。いやいや、目の前でアウトって言われているのに、ここがセーフなわけがない。「逃げよう逃げよう」。すぐそこにある見えない危険が怖くて、福島から離れることにしました。もちろんちょっとした2泊3日の旅行気分で……。
当時、主人が仕事で借りていた6畳1間のアパートが埼玉県にあったので、そこにしばらくいた後は借り上げ住宅に引っ越し、今は購入した中古住宅で生活しています。家を買った理由なんて話す機会もないし、誰にも話したことはありません。きっと「お金に余裕があるのだろう」と見られていたと思います。でも本当は……いたずらされて借り上げのアパートに住み続けるのは危ないと思ったから。子どもたちの命と、家を買って苦労するのとどっちを取るか? 答えは考えるまでもありませんでした。
私達避難者は何か手続きをする際に「借り上げですか? 借り上げじゃないですか?」と質問されます。これが何を意味するかというと、「借り上げに住んでいたら避難者だから支援する、借り上げではなかったら避難者ではないので支援しない」ということです。用意された場所から抜けた私たちはすでに避難終了ということなんですよね。もともと自主避難というくくりの私達には、あまり賠償金はありません。それに加えて、こちらでは何をするにもお金がかかるので生活するのが本当に大変! 福島だったら田んぼの畔道に置けた自転車だって、こっちでは駐輪場代がかかる、駐車場代も時間でどんどん加算していくのでスーパーのレジが混んでいるとイライラしちゃったりもします(笑)。それにうちは農家だったので、野菜は買ったことがないんです。「37歳で初めてねぎ買いました」みたいな(笑)。でもとにかくやるしかないんです。大袈裟じゃなく、生きていくしかないから。
避難してきたことに後悔はありません。ただ子どもたちを連れてきてしまったことに対してどこか罪悪感というか後ろめたさがあるのは事実です。だから何かにつけて聞いてしまう。「こっちに来てよかった?」。子どもたちは決まってこう答えます。「うん! こっちは遊ぶ場所もたくさんあるしね。でも……福島は福島でいいよね」。家族みんな、心の奥にはやっぱり福島があるんです。

次ページへ続きます。

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