社会的な関心の高まりによって、診断される人の数が年々増加の一途をたどっている〝発達障害〟。子どもの頃に診断された人、大人になってから気づいた人など多様なケースがある中、どんな生きづらさを抱えながら、どのように向き合ってきたのか……特性とともに歩んできた、それぞれの軌跡を伺いました。
栗原 類さん 30歳・東京都在住
ファッションモデル、俳優
母として、姉として、友として……
一人の人間として対等に
向き合ってくれた母に感謝しています
一人の人間として対等に
向き合ってくれた母に感謝しています
ネガティブすぎるイケメンモデルとしてブレイクし、現在は俳優として活躍している栗原類さん。発達障害と診断されたのは、8歳の時でした。
「通訳・翻訳家だった母の仕事の関係で、幼少期をNYで過ごしました。ある時、小学校の担任の先生に発達障害の診断を勧められたんです。アメリカでは特性の可能性がある場合、教師が親に伝えるのは義務。検査の結果、ADD(注意欠陥障害)と診断されました」
母からそのことを聞いたのは、1年ほど経った頃。
「映画〝ファインディング・ニモ〟を観て、ドリーというキャラクターに釘付けになって。何でもすぐに忘れてしまい、物事に苦戦するドリーが〝僕と似ているね〟と母に話したら、〝類も同じなんだよ〟と。全ては理解できなかったけれど、そのきっかけのおかげで、素直に受け入れられたと思います」。
5年生で帰国して中学へ進学するも、周囲には馴染めなかったそう。
「ADDを自分で認識し始めたのは中学生の時。空気を読みづらい特性もあって、9割の人を敵に回していました。当時、教育現場の発達障害への理解はまだ追いついておらず、相談してもなかなか改善には繫がらない。数少ない友人を心の拠り所になんとか通っていたものの、人生で一番苦しい時期でした」
その頃からモデル業を本格化し、バラエティを経て俳優に転向。その活躍を支えたのは、母の存在だった。
「母は、人の感情を読み解いて表現するのが苦手な僕に、役者は難しいと思っていたそう。でも、一度も反対したことはなかった。むしろ一番の応援者であり、良き理解者でした。母を一言で語るなら、姉であり友人のような存在。今思えば、僕を決して子供扱いせず、常に対等に接してくれたんです。親として導きながらも、1人の人間として尊重してくれたからこそ、僕も母を心から信頼していました」
そんな栗原さんの礎となっている言葉があるとか……
「〝勉強が苦手ならしなくてもいい。ただ、好きなことは妥協せず、徹底的に努力しなさい〟と言われていました。〝どんな業界でも、極めるために通るべき道がある。好きなことすら努力できなければ、一生何も成し得ない〟というのが母の持論。その教えを胸に努力したことで、役者の道が拓けたと思っています。台本を読んで覚えるのも苦手な特性ですが、そこは努力あるのみ。練習を重ね、体に叩き込んでいます」。
発達障害を抱える人、その親に伝えたいのは、〝弱さを曝け出すのを恐れないで〟ということ。
「自ら心を開いて周囲の理解を得られると、生きやすさが格段に変わります。特性によるミスコミュニケーションを避けるためにも、まずは自分の弱さを知ってもらうのが第一歩。僕自身も、事務所や関係者に特性について丁寧に伝えることで、仕事がしやすくなりました。周りにサポートしてもらえることは、〝努力を継続しやすい環境〟にも繫がり、モチベーションも高まります。もう1つ重要なのは、信頼できる第三者を見つけること。僕は主治医の先生に、これまで幾度となく支えられてきたんです。家族で背負い込むと、どうしても視野が狭くなり解決策が限定されてしまう。クローズドな環境で抱え込めば、いつか限界がきます。成長を止めないためにも、専門家や友人に頼って、客観的な視点を取り入れることを忘れないでほしいです」
〝トンネルの先には必ず光がある〟と語る栗原さん。
「どうしようもなく辛い時期も、一生続くことはありません。弱さを隠さず、第三者に頼る勇気を持てば、必ず乗り越えられると信じて。踏ん張った分だけ、眩しい光が待っているはずだから」
撮影/河内 彩 ヘア・メーク/甲斐美穂. スタイリスト/小川真央 取材/渡部夕子 ※情報は2025年11月号掲載時のものです。





















