ライターの上原亜希子です。私が担当させていただいている「私たちのCHALLENGE STORY」はSTORY創刊時から続いている読み物コーナーです。毎月変わるテーマに合った芸能人の方や一般読者の方にご登場いただき経験を語っていただきます。ライター6名で題材に合ったエピソードをお持ちの方をリサーチするのですが、難しい題材であればあるほど人探しは難航し、年齢の縛りが人探しをより難しくすることもあります。誌面を飾っていただく方は、読者の方にエピソードや生き方ををより身近に感じていただくためにSTORY世代(時に例外もありますが基本的には40代)に絞られています。テーマには合っているのに年齢が若すぎたり、少しオーバーしてしまったりという理由であえなくご登場いただけなかった方もいらっしゃるんです。
3月号のテーマは「これが私の羅針盤、いつも心に父の言葉」。今回は残念ながらSTORY世代から少しだけ外れてしまい、誌面ではご紹介できなかった佐藤美喜さんをご紹介したいと思います。
「『天の理(り)、地の利(り)、人の環(わ)』。天の理(ことわり)に逆らうようなことはしてはいけない、また天が与えた機会を受け止めなければならない。自分のフィールドを考えなければ物事は上手く進まない。見知らぬ土地であっても何らかの共感が得られればそこは自分のフィールドになり得る。対して共感なき場では草木は育たない。代え難きは人であり、人との交わりと助けがあってこそ物事がなされるということを心に置いておきなさい」。
この言葉は大学入学のためにご実家を出て、ひとり暮らしを始めた18歳の佐藤さんがお父様から贈られた言葉です。
現在、兵庫県西宮市に本社を構える船用電子機器メーカーの古野電気株式会社に勤務されている佐藤さん。同社は創業者が実用化した魚群探知機が日本で漁業革命を起こし、現在では船用電子機器総合メーカーとしてマリン業界の第一線を走る企業です。
そんな佐藤さんのマリン分野への第一歩は神戸商船大学航海学科(現・神戸大学海事科学部)への入学から始まります。
「大学入学は私にとってマリン分野への第一歩であると同時に、同大学の女子学生第一号という肩書も得ることになりました。当時、私は5人の女子学生と共に約1000名ほどの男子生徒の中にポンと放り込まれました。キャンパスには女子トイレは2か所だけ。そのひとつは女子トイレに指定された旧男子トイレ……。入口の表示が替えられただけです(笑)。なので、これまで通りに使用する男子生徒もいて休み時間のトイレは大変でした! 時間の経過と共に、男子生徒が用を足していても『はい、ごめんね入るよ~』という関西のおばちゃんのノリで入れるようになり、男子生徒を驚かせるという笑い話にはなりましたが、入学当初の花の乙女にはとても衝撃的でした」。
それ以外にも全寮制の同校での寮行事、早朝訓練への参加、朝6時に総員起床しランニング。ときには海に向かって寮歌や船歌を唱和するなどということも。中でも1年生の夏に行われる淡路島での半日にわたる水泳訓練と称した遠泳は過酷だったそう。しかし、その訓練を無事に終えたころには、商大生の「常に気力と体力を」のモットーにすっかり嵌まった学生と化していたそう。そんなエピソードを愉快に話してくださる佐藤さんですが、入学当時は女子学生の入学を歓迎していなかった在校生や先生もおり、風当たりはかなりきつく辛いことも多々あったそう。
「辛くても大学を辞めたいと思ったことが不思議となかったのは、愛すべき仲間や先輩諸氏、可愛い後輩たちや良き指導者に巡り合えたからです。彼らとの交流は今も変わりません。会うたびにマリン業界をもっと盛り立てよう!と熱弁を奮っています。この仲間たちの願いが今の私の仕事の原動力です」。
そんな佐藤さんは社会人になり、また新たな“第一号”の称号を得ることになります。それは古野電気株式会社、初の女性技術者第一号です。商船大学卒業後、古野電気に入社し、技術者として開発に携わられた商品は数知れず。その一部をご紹介します。
上から魚群技術を活かした水中装置、世の中には出ることはありませんでしたが海水表面の温度を測り魚を探す温度計、GPSコアチップは携帯電話にも入っているチップ。
海運業界に多大な影響を与えたインマルサットシステムは現在の船舶通信には欠かせないデジタル衛星通信機器。近い未来、船舶も自動運行可能になるかもしれません。
「私にとって大学への入学、古野電気での仕事、全てが『幸福な偶然』に感じます。私が技術者としてここまでやってこられたのは、顧客に関心を持ち、イマジネーション力で仮説を立て、顧客が求めているものを形にしていこうという気持ちがあったからだと思います。それは大学での経験、マリン関係で働く仲間の力、尊敬すべき先輩の力によるものだと思います。それを感じるときにいつでも思い出すのは、父から贈られた言葉『天の理、地の利、人の環』です。この言葉は1995年の阪神淡路大震災で被災した際、出産、そして痴呆を患った親の介護という人生の転機が訪れた際に、常に私の気持ちに寄り添ってくれました。この言葉のお陰で復興の街・神戸で踏ん張ることができ、改めて人の環に恵まれていたことを強く感じることができました。多くの方々が、この神戸の地が、私に与えてくれたものに対して恩返ししていきたい。海運業界に、地域に、人々に、自分に何ができるのか日々模索しながら、これからも挑戦していきたいと思っています」。