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【クソ旦からの脱獄】子供を抱えて、働けない時はジュエリーもバッグも全部売って生活費に

話も合うし、高学歴だし、違う人生に自分を運んでいってくれそうだし…なんて夢を見て結婚したものの、夫の現在形はクソ旦那変貌を遂げてしまった夫は、あちこちに生息しているようです。捨てるか、維持するか。そこはクソ(失礼)のレベルによるようで…。

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クソ旦からの脱獄

◯ 話してくれたのは...稲盛いず実さん(仮名)

’70年福岡県出身。短大卒業後制作会社に勤務。24歳で結婚し30歳で長女出産。両親ともに仲の良い温かい家庭に育ち、それが普通だと思って育った。40歳でフリーのコーディネーターに復帰し、現在も活躍中。稲森いずみさん似の色白美人。
彼:’73年佐賀県出身。大学卒業後大手広告代理店に入社し、ウエブ関連の仕事に携わる。28歳で結婚するも38歳で離婚。読書が趣味。穏やかで優しい人柄。

その日、いつも通りに夫を見送った後、引っ越し準備をし、家具2つと段ボール15箱を引っ越し業者のトラックに積み込み、テーブルに弁護士の手紙を置いたら、スーツケースと猫2匹と亀1匹を連れて家を出ました。先に高校生の娘が移動した契約したてのマンションに到着、辺りは暗くなり、夫からの帰るコールLINEを何事もなく既読にしてから、ブロック。こうして地獄の日々から脱出したのです。

夫とは友人が企画した合コンで出会いました。夫は一流大学卒業後、大手商社に勤務、私は短大卒業後、テレビ局関連の制作会社でコーディネーターをしていました。お互いロックミュージックと海外が大好き。話が合い、夫は頭も良く、経験豊富、すごく印象が良く、すぐに付き合い始めました。近々夫は会社からアメリカ留学の予定があって、実は私も学生の頃から留学が叶わぬままで、それならば「家族になって海外で新婚生活を始めよう」と、トントン拍子に結婚が決まり、出会って半年後には渡米。夫はビジネススクール、私は英語学校に行き、渡米中の2年半は楽しく過ぎていきました。

夫と付き合う前に実はラブラブだった彼と別れたばかりで、その彼とはいつも一緒、夜寝るのも一緒というような仲良しで、男女はそういうものと思っていたら、夫は別行動が多く、慣れぬ海外で私が夫に頼るより頼られることが当たり前。最初から夜の生活も極端に少なく、寝るときも上下びしっとしたスウェットを着て、風邪をひかないように体を守っているような姿。ちょっと女々しくて男らしくない人だな、ま、仕方ないか、くらいに思っていたのです。

帰国後もダブルインカムの生活。夜の生活が少ないこともあって妊娠しないので、30歳のとき、子供が欲しいと夫に伝えると承諾してくれ、医師の下タイミング法で、妊娠に向けて励みました。夫は目的があれば猛進する人で幸運にもすぐ妊娠

私は仕事がハードで同時に会社を辞め、出産に向けて準備をしようと思っていたら、夫も「人間関係が嫌で会社を辞めて起業したい」と言い出しました。普通、子供が生まれるなら、「起業は先にする」と延ばすはずが、徐々にわかってきた夫の性格は自分勝手で私や子供のためにという考えは全くないという人柄。言い出した途端、会社を辞めてきました。

それまで家賃は夫が払い、それ以外は私が払う分担でしたが、退職した途端「お金がない。生活費は毎月4万しか渡せない」と。独立費用がかかることもわかっていたので諦めるしかなく、出産後も少しの貯金を足しに生活をしていました。夫は家にいることも多く、家事で私がちょっとミスをすると、「お前は馬鹿だ」「気が利かない」「がさつ」とため息をつかれたり、お金はほとんど入れないのに「俺のお陰だ」、そしてお金の話をすると「お前は下品だ」「口汚い」と言われ続けました。

もともと私は反抗できないタイプで、喧嘩になることはなく、しかもその頃は知らず知らずのうちに夫に洗脳され、「私ができないから」と常に「ごめんなさい」と謝っていました。子供が小さいうちは働くこともできなかったので、月4万円の生活費と、自分のネックレスやバッグを売ってお金に換えて、娘の洋服を買いました。婚約指輪も売らざるをえなくなり、当時義母と夫から高価なダイヤと渡されていたのに、鑑定に出すとクズダイヤで価値はほぼゼロ、多少のお金になるのは地金のプラチナだけ。そう義母も厳しく、口が強い人。「嫁にしなきゃよかった。嫁候補は500人いたのに」と事あるごとに責められました。いや、どう自分を大目に見ても、そこまで言われる理由はありませんでした。

子育て中もほぼ娘の面倒を見てくれず、美容院にも行けないだけでなく、私がシャンプーをする間すら協力しない。だから髪を洗うのは週1。娘にも愛情はなく、プレゼントを買って喜ばせたことなんか一度もないです。子供の面倒を見ることは「犠牲」と思っているようでした。せめて学校は私立に行かせたいと夫に頼んで、それは叶ったのですが、毎月月謝を振り込む日に「これだけ出してやった」と娘の前で豪語。だから娘も成長するにつれ、父親が嫌いになり「ママが幸せじゃない。離婚したら?」というようになっていたんです。

娘が小学校高学年の頃から私は仕事に復帰し、生活に余裕は出始めましたが、それまではママ友とランチに行く余裕もありませんでした。家族で出かけることもなく、もちろん旅行にも行ったことがなかったです。夫は起業したものの、そういう性格だからうまくいくはずもなく、ぼちぼち仕事をしている程度。友達もいないので、週末は1日家でギターを弾いてました。

エピソードを挙げたらきりがないほど虐げられ、全く幸せじゃない日々。娘が中学生になったとき初めて離婚を切り出したのです。すると「俺から金を搾り取って、俺を捨てるのか」と。これは離婚できないな、話しても無駄だなと思いました。悩みました、本当に苦しかった。すると徐々に体調が悪くなり、食べ物が胸に詰まって飲み込めない。病院で検査をしてもらうと悪いところはなく心療内科を勧められました。明らかにストレス症状で、医師から「夫と一緒にいないほうがいい。弁護士をつけなさい」と勧められました。

すがる思いで弁護士さんを訪ねると、一刻も早く家を出て調停に委ねることを勧められたのが昨年9月。しかし娘の大学受験が2月に控え、決行は3月にすることに。とにかく夫が帰宅したら誰もいない状況にすることが大事で、誘拐や捜索願が出される可能性もあるとのことから地元の警察に前もって事情を話し、たとえ捜索願が出されても対応しないように届け出を出しました。

その数年前から、仕事の会合で私は3歳年下の広告代理店に勤務する男性に出会っていました。彼も妻とのもめ事を抱え、私も話を聞いてもらって意気投合。単純に友達として飲みに行っていたのですが、彼は妻と離婚が成立し、私の事情を知っているだけに、交際を申し込まれました。不倫だという意識もあったけど、夫への愛情はゼロだったし、何とか離婚したいと思っていたときだったので、罪悪感もなく、次第にデートをするようになりました。彼が娘にも会いたいと言ってくれ、娘に会わせたら「ママよかった。いい人だね」と言ってくれ、彼もものすごく娘を可愛がってくれるのです。私の唯一の支えとなっていました。

そして、家を出て半年後に一度夫に会いました。もちろん「絶対に離婚しない」の一点張りで、「殺人犯でも半年たてば反省してる。もちろん自分も反省した」と言うんです。まともに相手をする人でないと思いました。家を出てからは、どういうわけか婚姻生活費として毎月お金を入れてくれ、先月無事離婚も成立しました。今は彼と娘と3人で暮らしています。結婚を申し込まれ、先日上司にも紹介してくれました。元夫には「嫌」と言えなかった私が、彼には堂々とわがままを言っています。そういう私の弱かった部分に元夫は付け入ったのかもしれません。

先日我が家に、私の両親が遊びに来ました。両親にも離婚前に会わせていたのですが、「いい人だ。本当によかった」と喜んでくれました。そのときふっと両親とある事を思い出しました。娘が小学生のとき、我が家で両親とお鍋をしてカセットコンロのガスが切れてしまったんです。すると元夫が両親のいる前で大激怒して、嫌みを言い続けました。もし今、同じことが起これば、今の彼は「『コンビニに買いに行ってくる』と進んで買いに行ってくれる人よね」と。そんなことを話しながら、やっとたどり着いた幸せを味わっています

取材/安田真里 イラスト/あずみ虫  ※情報は2020年2月号時点のものです

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