モデル 岩井ヨシエさん(60歳)
★ 「モデルはずっとできる仕事ではない」と思い引退。リセットするために海外へ
★ フランスから帰国し、就職。夫となる男性に出会う
★ 結婚、出産、そして会社の設立。念願のデザイナーに
★ 息子の中学受験を前に夫が脳出血で倒れる
20代。街でスカウトされ、気がついたら一流モデルに
もう、40年前の話です。洋服のデザイナーを目指して勉強中だった21歳のとき、原宿で『anan』のスタイリストさんとヘアメイクさんに声をかけられたのをきっかけに、読者モデルとして雑誌に出るようになりました。それから、あっという間に毎月3〜5誌のファッション誌のレギュラーモデルになり、コマーシャルなどにも声をかけてもらえるようになりましたが、いきなり一流のスタッフに囲まれて、何が起きているのかよくわかっていない状況でした……。
「モデルはずっとできる仕事ではない」と思い引退。リセットするために海外へ
バイト感覚で始めたモデル業でしたが、刺激の強い日々に少し疲れを感じつつも夢中でやっていたときにふと、モデルの仕事は肉体労働で過酷な一面があり、ずっとやれる仕事ではないという不安が沸きました。
それと同時にデザイナーを目指していた頃を思い出し、もう一度デザイナーの勉強をやり直したいとモデルの引退を考えるようになりました。
思い立つと行動も早いので、6年間のモデル生活にピリオドを打ち、27歳で引退。気持ちをリセットしようとフランスに飛びました。
フランスから帰国し、就職。夫となる男性に出会う
29歳で帰国。フランスで吸収したことを活かしてファッション界で就活を始めるも、デザイナーの経験がないので採用は難しいと断られ続けた中、就活の相談をしていたアパレル会社勤務の男性が、のちの夫に。
ファッション業界で働きたいと熱意をぶつけては、実績がないのだからそんなに簡単ではないと説き伏せられ、厳しい現実を突きつけられて……トントン拍子で上手くいったモデルの時とは違う状況に凹んでいました。そんなときです、彼から結婚を申し込まれて、奥さんの内定をもらったのは(笑)。彼なら、と気持ちを固めたのを覚えています。
結婚、出産、そして会社の設立。念願のデザイナーに
今思えば、誰もが羨む、何一つ不自由のないキラキラとした結婚。1年後の33歳で第一子を出産してさらに幸せは加速します。当時、赤ちゃんに身の回りのものを揃えようと探しましたが、日本ではバギーひとつ気にいるものが見つからず、海外に行き買い付けていました。夫は「好きなものを好きなだけ買っていいよ」という私に甘い人で。ロンドンとパリに行って買い物しているうち、「そんなに海外のものがいいのなら子ども服のセレクトショップをやれば?」と背中を押してくれて35歳でブランドを設立しました。
小さな息子を抱えて良くやったな、と思いますが、若さもあるし、デザイナーになりたかった、という夢が心残りだったんだと思います。たった一人でブランド「Petit Câlin」を立ち上げることに踏み切りました。
年に2回、パリで開催されるサロンに買い付けに行きましたが、そのたびに置いていく息子に泣かれて辛かった……現地では気持ちを切り替えて買い付け、交渉、日本に届いたら検品、撮影してカタログ制作、やることがいっぱいあって忙しさに追われましたが、勢いで始めたわけですから結果的にうまくいかなかった……。息子に寂しい思いをさせているという気持ちとも向き合い、6年で閉めることにしました。ただ、夫のおかげで夢もかなえられたし、今でも色褪せないカタログを作れた思い出と、不慣れながらの接客も楽しかったです。
息子の中学受験を前に夫が脳出血で倒れる
息子が小学生になってからは、専業主婦として奮闘しました。夫の家系は学者や大学教授が多かったため、義母からの期待に応えるように私も「お受験」に没頭。お稽古、読み聞かせ、ストップウォッチを首から下げて朝の計算ドリル! さあ、いよいよ受験! という息子が小学6年生になる春、1本の電話で私たち家族の運命は一変しました。
夫が脳出血で倒れた……救急車で搬送された夫は半身不随となり、立ち上がることも、歩くこともできず、そのまま入院することになりました。
声を殺して泣く息子。私も状況を受け入れることができないまま、当時、夫が独立して経営していた会社の対応に追われました。頼れる親族もいなくて、1日1日を送ることで精一杯。13歳離れた年の差婚、玉の輿婚といわれた幸せな生活が一気に奈落の底に落ちたのです。
【明日配信の後編に続きます】
撮影/河内 彩 ヘアメーク/森ユキオ 取材/高橋奈央