結婚を10年も続けると結婚相手や暮らしに何かしらのあきらめを持つものではないでしょうか。このままでも人生は続く、しかしながらあきらめは永遠に続く…今回の読者さんはその停滞から一歩踏み出した方です。
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◯ 話してくれたのは...原田知代さん(仮名)
高校生のとき、友人と東大の文化祭に遊びに行ったとき大学生だった元夫と出会い、以来グループでよく遊んでいました。元夫からはこのときから10年にわたり、求婚されていたんですが、タイプではなかったので断り続け、飲み仲間の1人でしかなかったんです。
一方で、高校卒業後は子供の頃からの夢だった看護師になるために看護学校に入学、21歳から看護師として病院で働き始めました。幾度かの恋もして、26歳でその仲間の1人と交際。でもその彼は結婚する気がなく、とても好きでしたが適齢期を迎えていた私は、28歳のとき別れました。
それを聞きつけた元夫はすぐに求婚してきました。卒業後大手外資系企業に勤務、近々海外駐在もあるエリート。結婚相手として考えると「この人なら無難。東大卒だから出世もするだろう。海外生活も魅力的」と気持ちが乗ってしまったんです。
また、私の父もすでに結婚していた妹の夫も高学歴。その環境から、人をスペックで判断することが当たり前になっていたのだと思います。両親も元夫を大歓迎でした。
彼と別れて2週間後に結婚を決断。慌ただしく入籍して一緒に暮らし始めました。結婚式は当時、妹夫婦が短期留学で海外にいたため、妹の帰国後に予定。ところが入籍して1週間後、2人で酔って帰ってきて、私が洗濯物を取り込んでいる横で元夫が寝ていることにむっとして、「こんなことなら彼と別れなければよかった」とつい言ってしまったら、「まだ続いているのか」と口論になるや否や、部屋に置いてあるものすべて投げ、暴れ始めました。
止める私の手を振り払おうとして殴られ、突然包丁を持ち「俺が死ぬ」ってお腹に突き付けたんです。当時、夫婦間の殺人事件が度々報道され、このまま刺し違えたら大変と、咄嗟にドアを開け、「助けてください」と叫びました。近所の警察官がやってきて、諭されると元夫も大人しくなり、その日はそれで終わったんです。
でも翌日、部屋の惨状を見ても元夫は一切覚えてない。「お腹に傷あるでしょう」と見せても思い出しません。友人に聞くと、昔から酒乱だったとか。恥ずかしながら、大勢では出かけていましたが、2人きりのデートは数回で、人柄がわかっていなかったんですね。元夫は3杯目から酔うというので、2杯までにすることを約束して、その後は暴れることもなく、親の説得もあって、1年後に結婚式を挙げました。
思いのほか順調に時は流れ3年後に妊娠。ところが妊娠中些細なことで喧嘩して、また手が出たのです。切迫早産気味だったこともあり、私は実家に帰って距離を置きました。離れたことでお互い頭も冷え、出産を迎えると、もともと子供と動物が好きな元夫は感動し、私も子供が可愛くて、結局元の鞘に。やがて本格的に海外転勤が持ち上がり、私は病院を退職して準備していたのですが、結局転勤話はなくなり専業主婦に。
収入がなくなった私は、それまで私が払っていた車のローン返済の支払いを元夫に頼むも「知らない。生活費は出すけど自分で何とかしろ」と言われ、話し合うも平行線。頑固で意地悪なところも嫌でした。そのため、再度看護師として働き始めました。
このとき「看護師はいつでも働ける」と実感し、それなら「離婚できる」という気持ちが芽生え、周囲を固めようと思いました。まず離婚するなら兄弟がいたほうがいいと、ピンポイントで排卵日を調べ、即妊娠。ステップアップした看護師の資格も取りました。
そんなだから、毎日夫婦喧嘩。次男が生まれても、もう顔も見たくない、一緒にご飯も食べたくない、という状態で、別居を提案。でも子供たちに悟られないよう、家から5分にアパートを借り、退社後夕飯を作り、寝かしつけて元夫が帰宅したら私はアパートへ、看護師は朝が早いので、朝食と学校に送り出すまでは元夫担当、という生活を始めたんです。
以降、離婚を提案し続けましたが、離婚の条件は元夫に親権を渡すこと。だからなかなか離婚できず、この生活が6年続いた頃は、元夫と話すたびに気持ち悪く感じ、その後は原因不明の蕁麻疹が出ました。体も嫌がっていました。
ただ元夫は、仕事より子供命の人で、子供とはいい関係を作り、子育てもうまくやってくれていました。それを見ると離婚して親権を渡すしかないと、辛かったけれど諦め、40歳で離婚が成立。私のほうが収入は少なくても、日本の法律は子供を看護しないほうが養育費を払う義務があり、今も払い続けています。
この頃私はものすごく忙しく、そのうえ子供とはしょっちゅう会えなくなり、親権もない。辛い毎日を1人送っているとき、友人が「走ると無心になれるよ」とアドバイスをくれたのです。その言葉どおり走り始めると、走ることが日々の習慣になっていきました。そのうちランナーのツイッターに参加し、徐々にツイッター仲間でイベントに参加するなど、気分転換になっていました。その仲間の1人が今の夫です。
出会ってすぐ、彼が富士登山を誘ってくれ、一緒に登りながら、彼も7年前に離婚し、子供3人の親権は元妻にあると知りました。環境が似ていることで話が合い、次第に付き合うようになりました。離婚から半年後のことです。一緒にいると楽しいし、気も合うし、趣味も合う。幸せでした。
ただ1点気になることは彼が高卒だったことです。体育の専門学校を出て、スポーツトレーナーを目指していたのにできちゃった婚だったため、生活のために車工場に勤務。生活していけるのかも心配でしたが、何より私の家族に認められるかが不安でした。
ある時、海外のレースに一緒にエントリーをしたのですが、彼は会社から「レースに行くなら会社を辞めろ」と怒鳴られ、私は「そんな会社辞めたらいい。何とでもなる」と言いました。辞めたらプー太郎になるかと思っていたらスポーツ関係会社で働き始めるも上司とそりが合わず、またもやそこを辞めて、夢だったトレーナーを目指して柔道整復師の国家資格を取ることを勧めました。
私も苦しいときに看護師のステップアップ資格を取って助けられた経験があったからです。そして「支えるけれど、ヒモは嫌だからアルバイトを同時にして」と言いました。最初はお金のことで喧嘩しましたが、彼は資格学校に通いながらジムでパーソナルトレーナーのアルバイトを始めたんです。するとみるみるうちにお客さんがつき始め、企業から声がかかるようにもなって、すぐに私の年収を超えるまでになったんです。好きなことをやったらこんなにうまくいくんだと実感しました。
すると私も何かしたくなり、前から興味のあったヨガ講師の免許を取るために指導者養成コースに通いました。気がつくと、紆余曲折ありながらもお互いが高め合える関係になっていたんです。不思議なもので、自信が持てるようになって両親に紹介すると、すぐに受け入れてくれました。両親のせいにしていたけど、本当は私が気になっていたんですね。
年春、2人で100マイルレースに挑戦し、共にゴールしたらそのまま区役所に婚姻届を出そうと約束しました。私は彼から12時間遅れでゴール。一緒に区役所に行き、入籍しました。いい年して何やっているの? って思いますが、1度きりの人生、やりたいことを貪欲にやっていきたい。1度は失敗したけど、無理はしない我慢はしないラクな関係も育めています。
息子たちも高校生と中学生になり、たまに会ったり、文明の利器でLINEで毎日やり取りしています。まっすぐに育ててくれた元夫にもやっと感謝の気持ちを持てるようになりました。相変わらず、私には嫌みしか言いませんでしたけどね!
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2019年掲載時のものです。