恋愛映画のように、記念日にデートやプレゼントを欠かさない夫もいるかと思えば、「釣った魚にエサはやらない」とばかりなーんの愛情表現もしない夫もいます。それでは妻の感受性は枯れていくばかり。今月は世の夫たちにも一読いただきたいお話です。
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◯ 話してくれたのは...常盤貴美さん(仮名)
まるで高校生カップルみたいねと友人から笑われる私達は、彼53歳、私49歳。将来、入籍するかもしれないし、フランス婚のまま行くかもしれないし、流れに任せるつもり。私の人生は彼と出会って180度変わりました。
最初の結婚は24歳。短大卒業後、大学病院で秘書をしていた私は仕事が面白くて、結婚は30歳くらいでいいと思っていました。ところが知人の紹介で8歳年上の弁護士の元夫と出会い、求婚。とにかく真面目一徹で性格も外見もタイプじゃなかったのでお断りしたのですが、それでも強くお誘いがあり、ワイン好きな私のために、飲めないお酒を無理して飲んで、体調を悪くしたりして、朴訥でもその誠意に負けて結婚を決めました。両親の勧めも決断の大きな理由でした。
覚悟のうえでしたが、最初から恋愛感情はなく、性格も会話も合いません。夫は仕事も乗っている時期で超多忙。朝早く家を出て、帰宅は夜中。夕飯の時間に帰ってきても、また事務所に戻るので、近所の方には愛人カップルと思われていたほど。
いちばん悲しかったのは、喜びや悲しみ、感動を共有できないこと。すべてマニュアル通りに判断するので、一緒に笑ったり泣いたりということは皆無。真面目で経済力もあり、怒鳴ることも殴ることもしないけど、それってとても寂しい。喧嘩しても解決できることではなく、いつの間にか結婚と夫に諦めを持つようになっていました。その寂しさとストレスから過食症になり、数年で15キロも太った時期もありました。
当時、流産も繰り返し、体調が悪いことを告げると「気がたるんでるから」と言われたんです。もうこの人とは無理と思って、妊娠前の今なら離婚できると父に相談しました。すると父は頭を下げて、「頑張れ」と。仕方なく頭を切り替えた頃に、妊娠。26歳で長女27歳で次女を出産。
期待はしてなかったけれど、子育ても何一つ手伝ってくれなかったし、子育ての方向性も違う。家族旅行に行っても、私は子供の望むことをやらせたいと思うけど、夫はガイドブックを熟読して、「ここに来たらこのアトラクション。それ以外は許さん」というふう。一事が万事、何もかもが真面目でしかない。それ以外何もない人。愛されている感覚も全くなく、「この人は、この年で独身はみっともない。まあいいか」で結婚したんだろうと確信。いつの間にか、夫の前では一切笑えなくなっていました。
常に離婚の文字が頭をかすめていましたが、35歳のとき、母が病気で倒れ、その介護中に、幸せそうに見えていた母でも父との関係で後悔していることを聞き、母が亡くなると同時に、今のままでは人生後悔する、心から愛せる人に巡り合いたい、離婚して新たな道を歩み始めようと決意したんです。
収入を得るために、独身時代の秘書業務のつてや、興味のあったカラーアナリストの資格を取得して稼げないかなどと考え、何とかなるだろうと楽観的に考えて、夫に「このままだと子供に悪影響を与える。養育費などは要求する立場じゃないから全部任せます」と離婚を告げました。薄々わかっていた夫は、驚きもせず、「君ひとりで子供を育てるのは無理。子供の将来をどう考えているのか。離婚はしない」ときっぱり。子供達も「今のままがいい」と。
時期尚早だったと肩を落とし、夫に「それなら同居人として扱います」と、ご飯は作るけど、一緒に食べないし、会話もない生活がスタートしたんです。異常だったと思います。そのうち夫の気配を感じると息ができなくなって、とうとう体を悪くし、気管支がおかしいと思いました。言葉で言うと酷いですが、もう存在自体が嫌でした。
5年我慢して40歳になったときに父が他界。何よりも親に心配をかけたくなかった私は、これで離婚できると思って再度夫に告げると承諾してくれました。私は無一文で子供を連れて家を出るつもりでしたが、夫の方が家を出て、十分な養育費を用意してくれました。ちょっと驚きました。
それから私に彼ができるまで、ほぼ毎月1回会って近況を報告。それで知ったのが、実は子供への愛情は人一倍溢れた人で、それを出すのが下手な人だったということ。離れてみて夫の良いところが見えてきたんです。
でも、離婚後は子供と3人晴れ晴れした気持ちで過ごしました。シングルになるとモテる、と経験者から聞いていたとおり、急にモテだして、今の彼と出会う前に、10歳年下の彼とお付き合いしました。彼はテニスのインストラクターで、求婚もされましたが、彼の子供を産める年齢ではなく、悩んだ挙句お別れしました。
ちょうど別れる頃、友人の食事会で今の彼と出会ったんです。最初はお互いタイプじゃなく、興味もなかったのですが、2度目に会ったときに、意外に家が近かったことと、代々続く器ギャラリーの3代目で、仕事に対する情熱に打たれ、話が盛り上がりました。彼は若い頃に結婚経験がありましたが、長く独身で4歳年上。結婚相手を探しているとのことで、ほかの女性と行くレストランなどを私が紹介したりと交流を持ち始めたんです。
その頃、友人が経営するカフェでアルバイトをしていたのですが、毎日迎えに来てくれるようになり、周囲からも冷やかされ、交際が始まりました。同時に一緒に暮らし始めましたが、1度喧嘩して別れました。でもすぐに復活して、「一緒に住むのは中途半端」と判断し、家は別だけど、毎日どちらかの家で夕飯を食べ、彼の仕事もPRとして手伝うようになりました。
初めて、こんなに人を好きになっていいのかと思うほど、彼を好きになりました。でもそれだけでなく、器のこと、それに関する歴史のこと、生き方など今まで知らなかったことを教えてもらったんです。仕事を手伝うようになってからは、弁護士の世界しか知らなかった私が、異業種の人と交流を持てるようになって世界も広がりました。本当は内気で大人しい私が社交的に変わっていったんです。
年齢的に「手遅れ」が口癖だった私に、「もっと見ろ。やりたいことやれ」と言ってくれ、常にアンテナを張っていたいという気持ちになっていました。娘にも言うんです。「今の時代ね、お料理・洗濯ができたらOKの時代じゃないよ。やりたいこと見つけなさいね」と。
交際3年になりますが、毎日ワクワクがずっと続いているんです。買い付けにパリに連れて行ってもらったときは、見るもの、聞くことすべてに感動を分かち合いました。それこそが私が求めていること。感動を共有できるってこんなにも幸せなことなのかと。他が合わなくても情緒が合えばやって行けるのではないでしょうか。感動って嫌なことも消えてしまうんですよね。彼も実は人を寄せつけないジャックナイフのような人で、友人がいなかったそうなんです。でもこれではいけないと50歳過ぎてから反省し、そんなときに私と出会い、自分が持ってない柔らかさを私の中に見て、柔軟に変わることができたと言ってくれます。お互いのマイナス面をカバーできる関係こそ、男女の理想だと思えるんです。
長年連絡があった元夫からは、彼と出会ってからぱったり連絡がなくなりました。今思うと、復縁したい思いから、養育費を出し、連絡を取り続けてくれたのでしょう。私も若かった、甘かった。ちゃんと見れてなかったという反省はあります。でも辛い1度目の結婚を経験したからこそ、新しい世界の扉を開くこともできたのです。
弁護士の妻の座を捨てるのは、ちょっとは惜しかったけれど、勇気を出して自分の気持ちに忠実になれたことに後悔はありません。夜中のドライブも、たまの旅行も、彼が駅にお迎えに来てくれるのも、恋愛真最中の49歳です。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2018年掲載時のものです。