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Lifestyle中学受験小説「トロフィー・キッズ」

母に課せられた務めは、息子を慶應の付属中学に入れること【中学受験小説】

【第二話】結婚以来暮らしていた千葉・浦安の賃貸マンションから、IT企業に勤める夫の実家に近い世田谷区駒沢に移り住んだ小向美典(40歳)は、小学校4生活を送る今に満足している。また、同じ学校のママで人気フリーアナウンサーの尾藤エレナ(49歳)は、インタビューで4年生の息子の教育論を語るものの、内心は息子の偏差値に一喜一憂して……。

▼第一話はこちら
ますます加熱する中学受験に、40代ママたちが巻き込まれていく…


【連載小説】トロフィー・キッズ/尾崎英子 ★ ② 小5・3月

② 小5・3月

出かけるぎりぎりになって、夫の小向洸平はプロテインと牛乳をシェイカーで振ったものを飲んでいる。最近出てきたお腹を気にしているのか筋トレをはじめて、プロテインを出かける前に飲むようになった。シンクの横の白い調理台に、茶色のパウダーがちらばっている。フライパンのたまご焼きに火が入っていくのを待っている数秒のうちに、美典はすばやくその粉を布巾で拭いた。

「燃えるゴミを出してほしいの、ここに置いとくからね」

ああ、と短く返事するがゴミ袋を見ることもなく、夫はキッチンをバタバタと出ていく。ゴミ袋、玄関のそばに置いておいたほうがいいかな。そう思いつつも手を止めることもできず、たまごの生地を菜箸で整えた。厚焼きたまごがきれいな黄色に仕上がって、一人悦に入る。保育園も小学校も給食で済むので、お弁当なんて遠足やイベントごとの時にしか作らなかったが、塾の春季講習がはじまると、お弁当を持たせなくてはならなかった。今日で五日目だが、だいぶ手慣れてきた。

「今日も、俺のある?」

ヘルメットを頭に装着して洸平がキッチンに戻ってくる。ここに引っ越してまもなく、洸平はクロスバイクを買った。渋谷のオフィスまで自転車で通うようになり、ヘルメットにリュックが通勤スタイルだ。ついでに作った夫のためのお弁当を美典が差し出すと、おう、とだけ言って洸平は受け取る。

「今日は夕方から採用の面接があるから、ちょっと遅くなる」
「ふうん、わかった」
「いってきます。沙優、勉強頑張れよ」

塾のテキストを眺めながらバナナスムージーを飲んでいる娘に、夫は声をかけてリビングを出ていった。

「ってか、やばい、覚えらんない」

むずかしい表情で呟いている娘の肩越しから、美典はその手元をちらっと見る。さっき結んであげたおさげの三つ編みから出ているおくれ髪にも気づいて、小さな耳にかけた。

「漢字? 小テストあるんでしょう」
「小テストもだけど、来週にはクラス分けテストだよ、どうしよう。クラスアップできなくていいから、落ちたくないんだよね」
「現状維持みたいなことを言ってないで、上のクラスを目指さなくちゃ。お弁当、リュックに入れておいたからね」

そう言いながらキッチンに戻って、床の上に残された燃えるゴミの袋に気づくが、時すでに遅し、夫は出かけてしまっていた。もう! 持って行ってと言ったのに。マンションだからいつでもいいのだけど、頼んだゴミくらい忘れずに捨てに行ってほしい。

「ほら、そろそろ沙優も行かないと」

苛立ちそうになるのを抑えて、美典は娘を急かした。ほんとだ、と沙優はテキストを閉じて、ピンクのリュックにしまう。

「ママ、鉛筆削ってくれたんだ」
「全部先が丸かったよ」
「へへ、サンキュー」

鉛筆くらい自分で削りなさいと咎めたかったのに、感謝の言葉を向けられると、まあいいか、という気持ちになる。

日々は、ささやかなことの積み重ね。些細なことだとわかっていても、それをたいしたことではないとして扱われると、むやみにがっかりさせられる。些細な気遣いでも気づいてもらえたら、思いのほか救われている自分がいる。

沙優を送り出してから、自分の支度だ。洗面台でメイクをしていると、飾り窓の向こうに小さく、でもくっきりとした富士山が見えた。住宅街の中にある六階建ての四階、たいして広くはないものの一応3LDK。駒沢オリンピック公園を見下ろす景観なんてないが、洗面台の窓から小さな富士山がたまに姿を見せてくれる。頑張っている自分を褒めてくれているみたいだと、美典は勝手に思っている。

これくらいがわたしにはちょうどいいのかな。

たまご焼きの出来や小さな借景で、自分の機嫌を取りながら慌ただしい毎日を乗り切る。そんなふうにして、日常は続いていくのだろう。

一階のごみ収集場にゴミ袋を置いて、駐輪場から自転車を出してパート先へと向かった。来週はもうクラス分けテストか……。ペダルを漕ぎながら、美典はさっきの娘とのやりとりを思い出す。

塾ではだいたい一カ月半に一度のペースでレビューテストというものがあり、その成績によってクラスが変わる。一年前、五つあるクラスの一番下のクラスからスタートした沙優だが、そのうち一つ上がり、また一つ上がって、ここ数カ月は真ん中のクラスを維持している。負けず嫌いな子ほど中学受験に向いていると聞くが、沙優にそういうところはないものの、女子らしい真面目さでコツコツできるタイプのようだ。

都内の学校は中高一貫の流れが進んでいて、とくに女子は高校受験で受けられる私立の学校が減っていると聞き、とりあえず始めてみることにした中学受験だった。それを意識して家を買うなら、夫の実家に近くて、学校の選択肢も多いこのあたりに決めたわけだが、受験にたいしてさほど気負っていないはずだった。もし沙優が中学受験向きでないのなら早々に撤退していいのだとも考えていた。それなのにレビューテストでクラスが上がれば、もっと上を目指せるのかもと期待してしまう自分がいることに、つい最近になって美典は気づいた。

何がきっかけかは、わかっている。沙優が通っている啓明セミナーは大手塾の一つなので、全国模試も行っているのだが、直近の模試で四教科の偏差値がはじめて60を超えた。中堅に強いと言われている啓セミの偏差値60だし、鉄碧アカデミーの優秀層の子たちはほとんど受けていないのだから、舞い上がるほどのものでもない。そう思いながらも、偏差値表で60に載っている学校名をチェックすると、有名大学の附属校や最近よく名前を聞く進学校があるものだから頰が緩んでしまう。

「美典さーん」

名前を呼ばれて、美典は自転車のブレーキをかけてスピードを緩めながら左右を見回す。小さなテラスのあるカフェの前にいる玲子の姿を見つけて、笑顔で手を振った。

「玲子さん、お買い物?」
「真翔を塾に送ってきた帰りにね」

そう言って、玲子は手に持っていた白い紙袋を見せるようにする。クロワッサンが美味しいと評判のカフェだ。店から出てきたところだったようで、そばに駐車していた黒いBMWのヘッドライトが光りサイドミラーも開く。大きめのストールを巻いただけで薄着だと思ったが、車だったのか。

「春季講習だよね。沙優もさっき出ていったよ」
「沙優ちゃんって、啓セミに通っているんだっけ。駒沢大学駅の近くの?」
「うん、だから歩いていける。玲子さん、車で送迎しているんだ?」

鉄碧アカデミーの自由が丘校に息子の真翔を通わせていると玲子から聞いていたので、バスで通塾しているのかと思っていた。

「あたしがいない時はバスで行かせてるんだけど、あの子、スマホ見ながら歩いたりするから遅くって。できるかぎりね」
「そうなんだ、偉いな」
「どこの親もしていることよ。美典さんは、お出かけ?」
「これから、パートなの」
「自由通りからちょっと入ったところにある輸入食材の?」
「『クライス』っていうの。駐車場がないんだけど、お惣菜も置いてあってけっこう美味しいんだよ。今度よかったら覗いて」
「寄ってみるわ。あっ、またランチもしましょうよ」
「ぜひぜひ」

運転席に乗り込んだ玲子に手を振りかえし、美典はふたたび自転車を走らせた。

玲子って貫禄があるな、と思う。美典よりも五歳上だったはずだから四十五とか、それくらいなのだろうけど、いつも上質そうな服を身に纏っているし、外車も似合っている。本当にこのあたりって生活レベルが高くて、いまだに気後れしてしまう。

– – – –

あの店の甘いクロワッサンが大好きだから、娘の莉愛は喜ぶだろうと思って家に帰ると、義母の喜代子が来ていた。莉愛は義母が持ってきた塩大福を食べていて、玲子が買ってきたクロワッサンに少しは嬉しがってみせたものの、今はいいと言う。朝食のシリアルの後に丸々とした塩大福を食べていればお腹は満たされるに決まっている。

「朝一に行かないと売り切れちゃうんだよ。玲ちゃんも、おひとついかが」

勝手に緑茶を淹れてすすっている義母に、玲子は笑顔を作って羽織っていたストールをハンガーに掛けた。喜代子とはそりが合わないが、美味しいものに目がないところだけは似ている。

「今日は水曜ですよね、テニスはないんですか?」

アイランドキッチンのカウンターからダイニングにいる二人を眺めつつ、玲子は訊いた。水曜と金曜の午前中は、近くのテニススクールに通うのが喜代子の日課だと知っている。

「少し前から腰が痛くてね、しばらく休むことにしたんだわ」

七十三歳にしては体格が良くて背筋も伸びている義母だが、腰をさするように手を当ててみせる。整形外科の義父と皮膚科の翔一、どちらのクリニックもフル活用してメンテナンスしているだけあって若々しいが、それでも寄る年波には勝てないのだろう。

「腰? 大丈夫ですか」
「まあね、年だからしょうがないわよ」
「ばあば、腰が痛いの? かわいそう」

大人の会話をよく聞いている娘は、すかさず祖母を気遣う言葉を口にする。そんな孫をいとしげに見て、義母は塩大福で白くなった口元をティッシュで拭いてやっている。

「優しいね。大丈夫だよ。りーちゃんとこうやってのんびりしていれば、すぐに良くなるわ」
「でも、明日から莉愛いないからね」
「あら、どこかに行くの?」

莉愛にそう訊いてから、喜代子はこちらを見る。

「通っている英語教室のスプリングキャンプで白馬に行ってくるんです、二泊三日」
「へえ、そうなの。いいわね。りーちゃん、英語も上手になった?」

英語で何か話してみてよ、という祖母に、何かって言っても、と莉愛は照れくさそうに首を傾げている。それでも教室で習っている自己紹介を英語で言ってみせて、喜代子を喜ばせた。

この子はそつがない。そもそも女の子というのは大人びているというが、同い年の子の中でも利発なほうだと、我が子ながら感心している。それが0歳児の頃から知育教室に通って、二歳から小学校受験のための幼児教室に通ったたまものなのか、あるいは生まれながらの素養なのかは、母親の玲子にも知るよしがない。ただ、莉愛より三歳上の兄、真翔だって同じくらい手をかけてきたつもりだが、兄妹はまったく違っている。

「上手だわ。りーちゃんは、ほんとにしっかりしてる。塩大福もぺろっと食べたね。お兄ちゃんにも取っておいてあげなくちゃ。玲ちゃん、まーくんは塾だって?」
「そうです、春季講習があって」
「頑張っている?」
「ええ、まあ。あの子なりに一生懸命やっているみたいですけど」
「踏ん張りどころだ、リベンジだものね」

にこやかな声音でそう言われて、ですね、と玲子もあっさり返し、義母に背を向けるようにしてシンクに残っていたカップを洗う。

――真翔も幼稚舎だな。

忘れもしない。真翔のお食い初めの宴席で、義父に言われた台詞が、こういう時にかならず蘇る。

まだ寝返りも打てない赤ん坊の真翔を眺めながら、義父はそう言ったのだ。『ヨウチシャ』が『幼稚舎』だとすぐに頭で変換できなかった玲子は、えっ? と聞き返したのだが、夫の翔一は、当たり前のように頷きながらビールを飲んでいた。嫁の反応が鈍いと思ったのか、「玲子さんは北海道の人だから、馴染みがないのかな」と義父は言って義母と顔を見合わせた。

その時にはなんとも思わなかったが、その後、玲子はこの場面を何度も思い出し、そのたびに羞恥心を覚えるのだった。幼稚舎というのは慶應義塾幼稚舎のことであり、夫の母校である。夫が小学校から慶應出身であることは、交際しはじめる前から、玲子だって知っていた。

以前勤めていた病院の医師と看護師として知り合ったので、彼の学歴を知るのも早かった。それまではどのナースにも馴れ馴れしくて軽薄そうなやつだという印象を持っていたが、慶應義塾大学の医学部卒と知ったら、一気に惹かれるようになった。馴れ馴れしさは親近感として、軽薄さは都会的な振る舞いとして、オセロの黒が白になるように裏返った。医学部の中でも最難関レベルであり、医師界の中で慶應医学部というのが特別な地位であることは、東京の病院で勤務していればすぐに知るところだから、そんな自分の手のひら返しは特別おかしくはなかったと玲子は思う。殿上人みたいな翔一から交際を申し込まれた時には、一生分の運を使い果たしたように感じたものだ。

しかし翔一がただの『慶應医学部出身』ではないのだと思い知るのは、結婚した後のことだ。真翔のお食い初めで義父に言われたように、地方出身の玲子にはピンときていなかったが、翔一は幼稚舎から慶應に入っている……そのことがことさら重要らしいのだ。幼稚舎上がりで医学部に進学することが、どれほど稀なことなのか。

翔ちゃんはね、神童レベルじゃないの。医学部時代には「国宝」というあだ名をつけられていたくらいなんだから。

義理の実家の台所で、玲子以外に誰もいないのに声をひそめた義母は、冗談めかしながらも、けっしてそれが大袈裟ではないあだ名であると言いたげだった。そんな国宝級の息子とよくも結婚させてもらえたものだと自虐的に思わないでもなかったが、玲子なら看護師免許を持っているし、このあたりで手を打っておこうと思ったのかもしれない。

頭はいいくせに色事になると計算が働かないようで、医学部時代には付き合っていた女性とのことで警察沙汰になったこともあると噂で聞いたことのある翔一だから、義父母もさっさと落ち着かせたい思いがあったようだ。

「お兄ちゃんも、りーちゃんと同じ慶應に入れるといいんだけど」

莉愛に言っているようで玲子に聞かせるように、喜代子は言う。

「どうかな。あいつ、すぐにサボるから」

莉愛は悪気もなさそうにけらけらと笑う。

「こら、お兄ちゃんのことあいつなんて言わないの」

口が達者で余計なことも多いんだから、と娘に注意してから、「そうだ、明日の用意いろいろ買ってこなくちゃ」と大きめの独り言を言って玲子はキッチンを出た。

小学受験で幼稚舎に挑んだ真翔だったが、結果は残念なものだった。父親が幼稚舎出身で医学部まで出ているし、おそらく落ちることはないでしょうと幼児教育の先生にも言われてて、玲子も義父母も不合格を想定していなかった。が、その結果がすべてだった。医学部在学中に警察のお世話になったことが影響しているのかもしれないが、真相は闇の中だ。練習として受けた学校には合格をもらえたものの、翔一の父も大学から慶應で、三代にわたって慶應にご縁のある神取家がそこへ進学するのを許してはくれなかった。それゆえ、娘の莉愛が幼稚舎の合格をもらえた時は感無量だった。

神取家の嫁である玲子にいま課せられているのは、長男の真翔を中学受験で慶應の普通部、中等部、もしくは湘南藤沢中等部のいずれかに合格させること。ただ、それだけなのだった。

(第三話へつづく)

イラスト/緒方 環 ※情報は2024年4月号掲載時のものです。

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