“わが家”とは自分がいちばんほっとする居場所です。家族の思い出が詰まった住処であり、人によっては成功の証しでもある空間。それが突然、奪われてしまったら……。かけがえのない家を失ってきた女性たちは、その後、どのように立ち上がってきたのでしょうか。
山縣嘉恵さん 56歳・宮城県在住
「SAY’S 東松島」代表、防災士
家を失った3カ月後。市役所作成の
説明資料に驚き、未来が見えました
説明資料に驚き、未来が見えました
東松島の穏やかな海の近くに夫と息子と義母の家族4人で暮らしていた山縣嘉恵さん。家は東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた野蒜にありました。避難した野蒜小学校は体育館や校舎1階にも津波が襲来。山縣さんは必死に校舎の3階に上がり、幸い命は助かりましたが、一瞬にして家を流されてしまいました。
3日間は避難所で過ごし、その後、内陸の親戚宅へ。「家を失くしてからは家族で選択、協議、決定の繰り返しでした。親戚宅に移る時には『生きる場所がある人はそれぞれの場所で生きたほうがいい』。そう判断しました」。
1カ月後には塩釜市の賃貸住宅に入居することを家族で選択。「住民票を移すことで義母には泣かれましたが、雨風が凌げる場所に家族だけで暮らせる空間が持てて幸せでした。『仮住まいとはいえここで生活をしていこう』と気持ちを切り替えました」。
喪失感に苛まれていた震災から3カ月後、東松島市が説明会を開きました。「資料には自宅再建に関する支援内容やフローシミュレーションが書かれていて、目にした時は驚き、感動しました。避難所の対応だけでも大変な時に、この先の安心安全な街づくりのための生活再建が提案してあり、未来が描かれていました。自治体を支援する国も阪神淡路大震災からの学びで『今後は環境の変化で、ひきこもりや孤独死が増える。コミュニティが大事になっていく』と知っていました。実際に東松島市からは以前の地域をなるべく崩さず、地域ごと移転する提案もなされ、震災前から市民協働の街づくりが進められていたので、それが復興に活かされました。繰り返されるアンケートも丁寧で、新しい街づくりに参加している感覚がありました」。
野蒜の住民が野蒜に住むためには山を削るしかありませんでした。その間、山縣さんはみなし仮設住宅に6年間住み、現在は1、000人の人たちが「戻りたい」とアンケートで回答した野蒜の防災集団移転団地へ。そこでは1、300人の方々が戻って生活しており、集団移転の成功事例と言えるそう。
仮住まい中に山縣さんは防災士の資格を取得。現在は地区の集会所を交流の場として、月一度「地域食堂」でボランティア活動をしています。「家は失いましたが、転んでもただでは起きたくなかった。この体験を継承していき、防災に活かしていきたいのです。コミュニティを大切に暮らしていくことがイコール防災だと実感しました。普段付き合いで顔見知りになり、人と繫がること。まずは気軽に挨拶から。今後も地域に根付いていきたいです」。
撮影/BOCO 取材/孫 理奈 ※情報は2024年4月号掲載時のものです。