【前回まで】TVのドキュメント番組に映し出されるキャスター・エレナと実業家・淡田の完璧な夫婦像を横目に、つい自身の現実と比較してため息をつく美典。夫の洸平は、「夕飯はいらない」と連絡を忘れたことに悪びれもせず、草野球仲間との集まりに出ていく。同様に、医者の妻・玲子も子育てに寄り添ってくれることのない夫を選んだ自身の現実を、改めて突きつけられるのだった……。
【第七話】 小5・8月
人気別荘地というだけあり、道すがら豪邸が建ち並んでいたが、その中でも淡田家の別荘はひときわ立派だった。
「こんなところに俺たちが遊びに来ても大丈夫なものなのか?」
エントランスの前に車を停止させ、洸平はフロントガラス越しにその建物を見上げる。たしかに、自分たちには場違いなように美典にも思えた。
「ママ、ここってホテル?」
後部席の沙優も圧倒されているようだ。ゲートの向こうは緩やかな上り坂になっていて、小高い土地に、その豪邸は建っていた。美典は知らなかったのだが、なんとかという有名な建築家に頼んだと言っていただけあり、和とモダンの融合とでもいうのだろうか、たしかに今どきのセンスのいい高級旅館のような風格があった。すると、ゲートの向こうからさくらを連れた類がこちらに駆けてくるのが見えたので、美典は助手席の窓を開けて顔を出した。
「類くん、こんにちは」
「あのう、車を中に入れてくださいって、母が」
「ママはどちらに?」
「家の中です。あっ、そこのカメラから見えるんで」
そう言って、類は門の上のほうを指差す。監視カメラが付いていた。著名な二人の家ともなると、セキュリティも整っているのだろう。
夫は車を発進させると、徐行で敷地内を走らせた。車に並んで走る類が、左のほうを指差す。芝生の上に車が二台停まっていて、そこに並ぶように駐車した。
車の外に出ると、空気がひんやりしている。日差しは強いが、自然の中なので都内よりも涼しい。相模湾が近いので、ほどよく海風もあって気持ちがいい。ほどなくして、建物の玄関から白いTシャツにジーンズ姿のエレナが出てきた。大きな白いパラソルを差し、こちらにやって来る。
「いらっしゃい。案外時間がかかった?」
「道が混んでいて。玲子さんたちはもう着いているのね」
「夜のバーベキューの準備をしてくれているわ」
「こんなお庭でバーベキューなんて最高」
その時運転席から夫が出てきたので、美典はエレナに紹介する。
「夫です。こちら、エレナさん」
「小向です。今日は家族でご招待いただきありがとうございます」
「運転、お疲れ様でしたね。中ではパパたちはもう飲みはじめていますから、どうぞご一緒してください。荷物は、母屋の隣のゲストルームに運んでもらえますか。ほら、あの奥の建物、ドアは開けてありますから」
ゲストルームなんてものがあるのかと思って行ってみると、まるでホテルのような部屋が用意されていた。ウッディな室内に、クイーンサイズのベッドが二台。室内にトイレとシャワーもある。玲子の家族とも部屋が別になっている。
「別世界の人だと思っていたけど……想像していた以上の格差ね」
ガラス張りの向こうに広がる海を眺めながら、美典は呟いた。
「パパ、沙優もこんな別荘がほしい!」
「無理っすよ、お嬢さん」
ふかふかのベッドの上で父と娘が呑気に戯れ合うけれど、ここに来て美典は気後れがまさってしまう。招かれたものだから喜んで来たけれど、本当に来てもよかったのだろうか。手ぶらでどうぞと言われたものの、そうはいかないだろうとバイト先で手土産を見繕ってきたが…… 二千五百円ほどの白ワインにいろんなチーズの盛り合わせ、ドイツ製のトリュフが入ったサラミ。子供たちにポテトチップスと二リットルのコーラ…… 自分としては奮発したつもりでも、この別荘の主人に手渡す物としてふさわしくないように思えた。
まあ、いまさら考えてもしょうがないわね。バーベキューの手伝いをしなくては。荷物を置いたところで、三人で母屋へ向かった。
「おじゃましまーす」
吹き抜けになった玄関で声をかけると、はーい、と玲子が出てくる。
「遅くなってごめんね。玲子さん、夫です。こちら、神取真翔くんのママの、玲子さん」
「妻がいつもお世話になってます」
「お世話になっているのはこちらですよ。さあ、中に入って…… ってわたしの別荘じゃないんですけど」
冗談を言うように微笑んだ玲子は、身を翻すと、さながら家主のような堂々とした足取りで奥に進んでいく。ブルーが鮮やかなオフショルダーのワンピースはCFCLだ。話題のブランドを気負わずさらりと着こなしているその後ろ姿に見惚れてから、美典は自分自身を顧みる。もう少しリゾートっぽいものにすればよかった。この日のためにZARAで買った水色と白のストライプ柄のシャツワンピース。これならいいだろうと思って着てきたはずが、これが正解ではなかったと思えてしまう。
リビングのソファでは、淡田と玲子の夫である翔一らしき男性が白ワインを飲みながら談笑していた。またここでも初対面の翔一と挨拶する。
「堅苦しいのはいいから。小向さん、飲めますか?」
そう言って淡田は、新しいグラスを洸平に差し出す。あっ、どうも、と洸平は受け取り、白ワインを注いでもらっていた。
「パパたちも仲良くなれるといいわね」
エレナが隣にやって来る。
「こんなところに来てもいいのかな、なんて怖気付いていたのよ、あの人」
美典は小声で伝える。洸平よりもずっと気圧されているとは悟られないように、あたかもちゃかすように。
「ホスト慣れした淡田さんに任せておけば大丈夫よ。ねえ、母たちもキッチンドランカーしましょう」
玲子が瓶に入ったコロナビールを持ってきたので、三人で瓶を軽くぶつけ合うように乾杯する。ビールが気持ちよく喉を流れていくと、さっきまでの気後れが少しずつ和らいでいくようだが、それでもエレナと玲子と談笑しながら、美典の中のもう一人の自分が確認してくる。
この場に溶け込めている? この二人と対等と言わないまでも、釣り合いが取れるような自分でいられている? こんなわたしが、こんな場所にいておかしくない? そんな自問自答をしていると、先週末の、千葉の実家に帰省した時の情景がなぜか脳裏に浮かんでくる。美典が高校三年生の時に亡くなった父が残してくれた広くはない古い戸建で、母と四歳下の弟、夏樹と、埃まみれになりながら断捨離した光景は、この場所の真逆にあるように思えた。学生時代に着ていた古いトレパンとTシャツという姿で、母が茹でてくれた冷麦を啜る…… あんな姿を、玲子とエレナには絶対に見せられないと美典は思う。
—
日差しがやわらいできた時間になり、庭でバーベキューをはじめた。ほろ酔いの夫たちはすっかり打ち解けた様子で、サッカー談議に盛り上がりながら肉を焼いてくれる。束の間とはいえ勉強から解放された子供たちは鬼ごっこのようなものをして、楽しそうだ。みんなが笑っていて、エレナは満ち足りた気持ちになる。
「本当にいいところね。ここに建てたのは、何か理由があったの?」
ワイングラスを片手に頰杖をついた玲子が、エレナの顔を覗き込むようにして訊いた。
「あの人が海のそばで育ったものだから、海の近くに別宅がほしいと言ってね。いろいろ見た中で、ここがベストだったの」
「僕は田舎者だから、たまに自然の中で遊ばないとおかしくなっちゃうんですよ。はい、どうぞ」
隣のテーブルまで会話が聞こえていたのか、淡田はそう言って肉を盛った皿をこちらに差し出した。
「すみません、ずっと焼いてもらって。ご出身は高知でしたよね。行ったことがないんですが、いいところなんでしょうね」
美典は焼きたてのカルビに箸を伸ばしつつ、淡田に言う。
「僕の家がある辺りなんて、便利なものが何一つないところなんですけどね、とにかく海が広いんですよ」
夫の言葉を聞いて、エレナの頭の中にもだだっ広い凪の海が浮かんだ。はじめて淡田の実家を訪れた時、あまりにも自分がいた環境と違っていて驚いたが、それもまた新鮮だった。あのような場所で育ったのなら、海が恋しくなるのも当然だと思って、ここに別荘を作ることに賛成したのだった。
子供たちがサッカーをしようと父親たちを誘いに来る。ちょっとだけな、と翔一はグラスのワインを飲み干す。翔一に合わせて、淡田と洸平も立ち上がった。父親たちの参戦に、子供たちの歓声が沸き上がった。
「淡田さん、本当にいいパパよね。火をおこすのもお手のものだし、類くんも手伝い慣れていて、上手だった」
美典がそう言うと、ほんとね、と玲子も頷く。
「まさに生きた授業。理科と社会の知識は、いろんな経験をさせてこそ身に付くっていうもの」
玲子がそう言うので、いいパパねぇ、とエレナは苦笑混じりに首を傾げる。
「エレナさん、いろいろ言いたげな顔ね。淡田さんって、類くんの勉強のことには熱心なの?」
「興味なさそうな顔をしているけど、案外見ているんだと思うわ」
エレナは美典に言った。
「俺の息子なんだから、できないわけがないって思っているんじゃない? 期待値が高そう。応えるのが大変だ」
玲子が声をひそめる。
「さすが玲子さん、わかる?」
「うちの夫も似たようなところがあるから」
「やっぱり優秀なお父さんたちって、そんなふうに考えるものなのかな」
「うちの人、自分が神童って言われていたものだから、子供たち…… とくに真翔のことを下に見ているところがあるわね」
「淡田の場合、類を下に見てはいないと思うけど、わたしのやり方に賛同してないところはあるの。あの人、五人兄姉の末っ子で、教育熱心でもない親に育てられたのよ。兄姉はみんな凡庸なのに、彼だけ突然変異みたいによくできたみたいで、県内トップの高校を首席で卒業して、現役で東大法学部」
「大学在籍中に起業して数年で会社を上場させたのよね」
玲子が言い足すので、エレナは頷く。
「人生で一度も、塾にも通ったことがないんだって。だから、類が塾に通ったり、母親のわたしがあれこれ管理しているのを見て、鼻白んでいるんだろうなって思うことはある」
「そっか。にしても、塾なしってことは、自力だけで東大って……生まれながらにしてここの出来が違うってことね」
目を丸くした美典が、自分の頭を指差すので、エレナは笑ってしまう。彼女のこういう屈託のない反応がいい。美典の存在はありがたかった。自分と性格も境遇も似ている玲子とは、もっと腹を割って話せば、いままで以上にわかり合えそうだと思う一方で、似すぎているというのも危険だと感じていた。同い年の男子で中学受験を目指しているとなれば、この先、お互いにいやでも意識するようになる。同じ学校を受けることだってあるかもしれない。だからこそ、これまでエレナは玲子に興味を持ちながらも、ある程度の距離を保ってきたのだが、女子ママの美典が入ってくれたことで、玲子との仲も深められたように思う。
そんなことを考えて、女子といえば、とエレナは思い出した。
「それはそうと、玲子さん。さっきね、莉愛ちゃんとお話ししていて、てっきり同じ小学校に通っていると思っていたものだから、担任の先生は誰なんて訊いちゃったの。よくよく聞けば天現寺に通っているっていうじゃない」
エレナがそう言うと、ああ、そうなのよ、と玲子は頷いた。慶應義塾幼稚舎に娘が通っているとなれば、普通なら言いふらしたいほどの誉れだろうし、玲子の性格であればさらっと言ってのけそうなのに、あえてそうしないのには、きっとわけがあるのだろう。考えられることは、一つだ。真翔も幼稚舎を受けた。それで不合格だった。だから、いまの小学校に通っているのだろう。玲子としては、そのことをあまり知られたくないのかもしれない。
いきなりエレナが莉愛の学校について触れてきて、玲子は内心では焦ったものの顔には出さず、ああ、そうなのよ、と軽く頷いてみせた。
「あれ、言っていなかった?」
「天現寺って、広尾の近くにある、あの?」
玲子とエレナの会話に割って入るようにして素朴に訊く美典に、慶應幼稚舎のことよ、とエレナは教えた。
「人気の私立や国立の小学校って、なぜかその学校がある土地を隠語のように言う慣習があるのよね。うちは記念受験みたいなものだけど、国立だけ受験させたの。お受験の掲示板を見て、そういう慣習があると知ったの。ちなみにくじ運のない我が家は、ことごとく抽選で落ちてしまったんだけどね」
エレナが笑ってそう言うのを聞き、玲子は内心で首を傾げる。本当に国立だけ? 記念受験するにしても、エレナのことだから、幼稚舎は受けたのではないか? 合格したら幼稚舎に通うはずだから、受験したけれどダメだったのではないか? もしそうだとしたらいいのに……。
「小学校受験って、向き不向きがあるでしょう。真翔は実力主義の中受を経験させたほうがいいんじゃないかって、夫婦で話し合ったのよ。莉愛はお受験に向いていたし、それでよかったと思っているわ」
探りを入れられる前に、玲子はそう言っておく。類はたしか四月か五月生まれだったか。早熟で利発。背も高くて体格がしっかりしている。あの学校がほしい生徒像に近い類が、もしも幼稚舎を受けていて、ダメだったから中学受験するのだとしたら…… 玲子はそこまで考える。でも淡田が東大出身だから、国立しか受けていないような気もする。どうなんだろう。本当のところを聞きたいが、もちろんできない。なぜなら、そのためにはこちらも曝け出さなくてはならないから。
「幼稚舎って入るのがものすごく大変なんでしょう? すごいね、莉愛ちゃん」
玲子の内心の慌ただしさなど察する様子もなく、美典は門外漢の様子で感心している。
「どのタイミングで受験させるのがいいのかは、その子によって違うものね。兄妹それぞれで見極めている神取家の采配はさすがだわ」
エレナが褒めるのを、やあね、と玲子は笑いながら赤ワインを一口飲んで、視線を二人からそらした。
ああ、また噓をついてしまった。
自分を噓で固めているうちは、どんなに笑顔で溢れていても、彼女たちと関係が深まることなんてない。ママ友なんて、そんなものだ。クールに言ってのければいいのに、なまじ楽しいものだから、胸が痛む。なぜか、焦りもする。
いまさら、噓をつくことに罪悪感を覚えているというのか。バカらしい。たいした噓でもないのに。和気藹々とした雰囲気を享受しているように微笑みをたたえながら、玲子は自分の中の後ろめたさを打ち消そうとする。でも、玲子は気づいていた。想定外に、エレナと美典との関係を自分が気に入ってしまっていることを。だけど、余計な感情に振り回されたくない。そうだわ、こういう時は真翔の勉強のスケジュールを考えよう。
寝る前に社会の一問一答。朝は少し早めに起きて、計算トレーニングをしよう。車の中では理科の動画を見せよう。次の月間テストは真翔が苦手な天体だから、しっかり覚えさせなくては。渋滞にはまらなければ二時くらいには家に着くから、塾の前に物語文を解けるだろうか。
真翔のやるべきリストを組み立てているうちに、玲子の胸の内のざらつきは、少しずつなめらかになっていく。大丈夫、真翔の受験がうまくいけば、いいだけのこと。そうすれば、きっと、くだらない噓だってつかなくてよくなる。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年9月号掲載時のものです。