【前回まで】子ども達の夏休み、エレナ夫婦が所有する海辺の豪華な別荘に3家族が集う。ワイングラスを片手にほろ酔い加減でバーベキューを楽しみ、夫が子ども達とサッカーに興じる和気藹々とした時間の中、本音で夫の愚痴を言い合う一方で、玲子は息子の真翔が慶應幼稚舎に落ちたことは封印し、嘘を重ねていくのだった――。
【第八話】 小5・9月
気になる学校の文化祭の日程を調べてみると、同じ週末に開催していることが多かった。塾の授業を休まずに調整するのは、けっこう難しい。あの学校もこの学校も見学したい。沙優本人にも見せたい。とはいえ、勉強時間も確保しなくてはならない。あれこれと悩んだ末、厳選した四校に足を運ぶことにした。
「さすが自由が丘国際学院、みんな優秀そうだったわ。男女も仲が良さそうで、雰囲気もよかったし、制服もかわいかった」
学校を出て自由が丘駅近くのバス停に向かう道、美典が夢見心地で言うと、ママ、自分が進学するみたいだね、と沙優は笑った。
「良さげだったけど、校舎は狭そうだったな。ただのビルって感じ」
「たしかに、グラウンドもないし、キャンパスって感じはなかったけど。でもでも、それを上回る魅力があの学校にはあったと思うな」
グローバル教育に注力していることで人気が高まり、海外大学への進学実績も増えている自由が丘国際学院中学校は、いまは御三家に追いつきそうなほど偏差値が高くなっている。共学志向の女子だと、御三家を蹴って、共学の自由が丘国際学院を選ぶこともあるという。いまの沙優が目指せるレベルではなかった。
ただ見学するなら、誰でもできる。もっとも勢いのある学校を見ておくのは、志望校選びをする上で悪いことではないだろう。物見遊山に近い気持ちで訪問したはずなのに、聞きしに勝る素晴らしさで、こんな学校で六年間を過ごせたら……と夢見てしまうが、呑気に浮かれているばかりではいけない。沙優の感想を聞かなくては。
「今日の二校、どっちも共学だったでしょう。午前中行った渓星中と比べて、どちらのほうがよかった?」
「どっちかって言ったらね、渓星かなぁ」
「へえ、どうして?」
「グラウンドが広かったし、カフェテリアがおしゃれだったし、それと脱出ゲームとかお化け屋敷とか面白かった。あと、焼きそばも美味しかった」
「じゃあ、女子校と共学なら?」
「どっちかというと……共学? でも、青明女子のチアダンス部はガチでかっこよかったよね。まあ、沙優はダンス部に入りたいとは思わないけど」
渓星大学第一中学校は、偏差値だけで判断すれば、自由が丘国際よりもずっと入りやすい。そうはいっても、人気のある附属校の中でも倍率が高いほうだ。中受界隈で言うところの「ボリュゾ」、つまりボリュームゾーンにいる子たちが目指すため、偏差値以上に門戸が狭い。
先週行った女子校二校、青明女子中学校と優華学園もそれぞれが魅力的に見えて甲乙つけがたかった。やっぱり、実際に見学することは大事なのね。美典はここ最近暇さえあれば見ている啓明セミナーの偏差値表を、頭の中で広げる。
渓星大学第一中学校の二月一日に行われる一回目の試験の偏差値は、57だ。優華学園の普通コースの一回目が52、アドバンスコースは難易度が上がって60くらいだったか。青明女子中学校の一回目は63。そして、自由が丘国際学院中学校の一回目は65になっている。二月四日の二回目なんて、68だ。女子のトップ校である桜鳳中学校は76で、ボリュゾにいる沙優からすれば異次元の領域だが、偏差値66や68だって安易に目指せるものではない。
「ほんと、どの学校も素敵だったけど……やっぱり自由が丘国際、素敵だったな」
「お母さんが気に入っちゃったね」
沙優に笑われても、そのとおりだから頷くしかない。男女問わず仲が良さそうな和気藹々とした雰囲気。生徒の自主性を重んじた自由な校風。東大至上主義ではないところもいい。情操教育に力を入れていることは、校内に飾られている生徒たちの美術作品や吹奏楽部の演奏などのレベルの高さでよくわかった。幅広く進路を選択できる教育方針を掲げていて、海外大学、名の知れた音大や芸大などの進学実績も出している。そのうえで東大、医学部の合格者数も伸ばしているのは、言わずもがな。
実家に帰ったときに、弟の夏樹に言われたことも頭にあった。美典よりも勉強ができた夏樹は、現役で千葉大の理学部に進学し、大学在学中に塾講をしていた。地元ではよく知られている老舗の中学受験の進学塾だったので、学生のバイトとはいえ、社員と同じように進路の面談をするなど、受験現場を経験している。そのためか未婚で、この先も結婚するつもりはないようなのに、中学受験の記事があれば読んでいるようで、何かと詳しかった。これからはグローバル教育に力を入れている新興学校がお勧めだと言い、たとえばの筆頭に、自由が丘国際学院中学校が挙げられたのだ。夏樹が言っていたとおり、いまの時代に合った教育を授けてくれそうな学校だった。
バスは空いていて座ることができた。ゲームをしたいと言う沙優にスマホを貸し、美典は手帳を開く。
「行ってみたかった学校の文化祭は、とりあえず見ることができたわね。ほかにも気になる学校はあるけれど、ママが説明会に行って、様子を見てくるのでいいよね」
「いいんじゃないの」
スマホでゲームをしながら、沙優は答える。正直、もう少し気合が入ればいいと思うも、ここでちょっとした息抜きになっているゲームまで完全に禁止してしまうと、あと一年半も持たないように思う。中学受験は長期戦だ。
各教科のアップダウンはあるものの、四教科の偏差値は伸ばしていた。真ん中のクラスの中でも上位にいて、この間のレビューテストでは、惜しくも十点足らず、上のクラスに上がり損ねて、本人も悔しがっていた。これからに期待ね。そう思って、美典は手帳を閉じる。
「そのペン、類くんのママたちと買ったやつ?」
ゲームオーバーしたのか、沙優はこちらに顔を向けた。手帳に引っ掛けていたラミーの万年筆を指さす。
「そうそう。お揃いの文房具を買ったのなんて、高校生の時以来よ」
エレナの別荘で一泊した翌日、鎌倉にあるフレンチでランチを食べた帰り、その店の近くにあった雑貨屋で買ったものだ。ふらっと入っただけなのに、美典のほんの思いつきで、玲子とエレナと三人で、このラミーの万年筆を色違いで買った。美典はイエロー、玲子はレッド、エレナはホワイト。その時の光景を思い出し、少し照れ臭いような気持ちで、美典は一人で微笑んだ。
—
サイエンスショーを披露してくれた理科実験部の学部員たちに拍手を送り、玲子は翔一と真翔と一緒に理科室を出ようとする。感想を書いてほしいというので、生徒からアンケート用紙を受け取った。玲子が廊下の脇にある長机のほうに寄ってバッグからペンを取り出していると、翔一と真翔は隣の教室が気になるようで覗きに行く。物理化学部の看板が出ていた。噂どおり理系の部活動が充実しているようだ。
目黒工科大学附属中学校は、全部で三回受験できる。二月一日午後、二月二日午後、そして二月四日の午前。その日程から、併願校として選ばれやすく急成長している学校だ。目黒工科大学の附属ではあるが、ほとんどの生徒が外の大学を受験する進学校として知られており、御三家を第一志望にしている子たちが結果的に、ここ目工大附属に進学することも多いため、大学合格実績も目を見張るものがあった。今年も十人の東大合格者を出している。医学部にも強い。
真翔は、二月一日の午前に慶應義塾普通部、二日の午前に慶應義塾湘南藤沢中等部、そして三日の午前に慶應義塾中等部を受験する。これはすでに、確定しているスケジュールだ。もちろんこの三校のいずれかに合格をもらうつもりでいるし、慶應以外は考えられないと鉄アカの先生にも伝えているが、「念のため」と併願校を検討するように言われていた。
言わずと知れた慶應義塾大学の附属校は、いずれも最難関レベル。厳しい戦いになることは間違いない。受験に絶対はないわけで、残念ながら慶應の三校がダメだった場合、どこかに合格をもらっているかどうかで、真翔のショックの度合いも変わるものだろう。併願校として勧められたのが、この目工大附属だった。
いろんな学校の見学はしておくに越したことはない。ここは男子校らしい活気に満ちて生徒たちが楽しそうな印象だ。電車の乗り換えはあるものの、一時間かからない距離なのもいい。真翔は生徒に誘われるように、物理化学部の教室に入っていく。きっと、この学校に通うことになっても、彼は楽しめそうだ。
だけど、そういうわけにはいかない。
翔一も連れてきたのは、慶應以外の学校にたいする夫の反応を見たかったからだった。いつだったか、彼自身は慶應にこだわっていないようなことを言っていた。そうは言っても、実際によそを見たら、これじゃないと感じるのではないか……。
「玲子さん?」
いろんな考えを巡らせながらアンケート用紙に記入していると、すぐそばで名前を呼ばれ、玲子は顔を上げる。セリーヌのキャップを目深に被った女性がこちらを見ていた。誰なの? 目で問いかけると、その女性がキャップを少し上げてくれて、そこでエレナだとわかった。
「やだ、びっくり」
思わず名前を呼びそうになるのを堪えて、玲子は口を押さえた。こういう場では尾藤エレナだと知られたくなくて、帽子を被っているのだろうから。エレナの隣に類もいた。
「びっくりよ。来ていたのね。真翔くんは?」
「物理化学部を見てる」
玲子が隣の教室の前にある看板を指すと、エレナは類に教え、類も興味を持ったのか、そちらに向かった。
「類くんも、ここを受けるんだ」
「併願校の候補の一つかな。それにしてもすごい人気ね。全員が六年生ではないとはいえ、この人数を見ると、怖くなるわ」
「サイエンスショーも長蛇の列だもの。見応えがあったし、並んだかいはあったけど…… そう考えると、ゾッとするね」
「見応えあったなら、楽しみだわ」
「感想を書いてくれって渡されて書いていたところ」
玲子はアンケート用紙を回収ボックスに入れる。
「あっ、それ」
エレナの視線が手元に向けられ、そうそう、と玲子は握っていた赤色の万年筆を見せるようにした。鎌倉の店で買ったものだ。エレナはバッグの中をまさぐると、「わたしも使っている」と白い万年筆を取り出した。
「お揃いで買おうって美典さんに言われて、思わず笑っちゃったけど、なんだかいいわね、こういうの」
「嬉しいものね。学生の頃みたいな友達が、大人になってからもできるなんて」
エレナは切れ長の目を細めた。
女子高生みたいに……。美典はそう言った。
――ねえ、お揃いのペンを買わない? 女子高生の時みたいに。玲子さんとエレナさんと仲良くなって、なんだかわたし、学生の頃に戻ったような気持ちなのよね。
てらいのない美典の顔を思い出し、玲子は笑う。「ママ友」という言葉ではなく、学生の頃みたいな「友達」として、美典は自分とエレナのことを思ってくれている。そんな美典だから、玲子も柄にもなく、どんどん無防備になってしまう。こんなに噓だらけの自分を友達と思ってくれていることを、後ろめたく感じると同時に、どうしようもなく嬉しいと感じている自分がいた。
「じゃあ、そろそろはじまりそうだから」
エレナは理科室を指さし、類を呼んだ。じゃあね、と玲子は手を振り、中に入っていく二人を見送った。
理科室には目一杯の親子が入っている。今日と明日、この二日間でいったいどれだけの受験生が訪問するのだろう。ここを受けると決めたわけではないが、いまの真翔の成績ではここだってけっして安全校とは言えない。塾の先生が言うところの、その後の自信にも繫がる合格を得るために受ける併願校として、ここが妥当だとも思えなかった。
合格を確保するためなら、もっと偏差値が低いところを選んだほうがいいことは、玲子もわかっている。でも、そういうことではないのだ。玲子にとって…… いや、神取家にとって、併願校なんてどこでも一緒。
つまり、慶應か、それ以外か。
「類くんが来てたな。淡田さんたちも?」
こちらに戻ってきて、翔一は言った。
「エレナさんと二人だけ。真翔、まだ?」
「無線の交信の体験だって。もうすぐ終わるだろう」
「ねえ、この学校、どう思う?」
「いいんじゃないの。俺も男子校だったけど、こういうノリだったんだろうな」
「男子校ではあるけど、さすがに普通部と同じノリってことはないんじゃないのかしら」
「そうか? 正直、よく覚えてない。ところで俺、次の用があるから、そろそろ出るわ」
「えっ? 次の予定があったの?」
「高原たちと、ちょっと」
「また? 何をそんなに会って話すことがあるっていうの?」
「あいつもいろいろあるみたいで、話を聞いてくれってうるさいんだよ。ってことで、夕飯はいらないから」
言うだけ言うと、翔一はすたすたと廊下を進んでいく。真翔に声をかけてから帰るのかと思ったら、それすらなく、階段を下りていった。物理化学部から出てきた真翔は、楽しかったー、と子供らしい笑顔で戻ってきた。
「アマチュア無線やべー。面白かった! あれ、お父さんは?」
「用事があるって、先に帰ったわ」
「あっそ。でさ、無線って、声のXみたいなもので、もしもしって言ったら、どこかにいる知らない人が返してくるんだよ!」
父が急にいなくなったことなど構わずに、真翔は無線の面白さについて語り出す。真翔の話に適当な相槌を打ちながら、そういうことか、と玲子はため息をついた。翔一にしてみれば息子の進む道が、慶應でも、それ以外でも、構わないのだ。どの中学校に進もうとどうでもいいんだ。それが、わかってしまった。
これまでの結婚生活で、翔一に期待しない訓練を積んできたつもりだった。いまさら、何を言われても、されても、がっかりしないで、淡々としていられるメンタルを身につけたつもりでいた。それなのに、玲子はいま、思いがけず落胆している自分に気づく。
慶應以外はダメなのだと縛り付けられているほうがまだよかった。妻である玲子だけではなく、息子にも無関心だなんて。それを思い知らされて、喉が締め付けられる。いまの自分の素直な感情を誰かに聞いてほしい。ちょっと聞いてよ、ひどいのよ、と。美典のことを思い浮かべながら、玲子は泣き出しそうな感情を押し留める。こんなにも家族を蔑ろにするくせに、自分だけ同窓の男友達とつるんでいい気なものだ。ああ、腹が立つ。
いや、待て。男友達? 玲子は我に返ったように真顔になり、宙を見る。高原ではなく、別の誰か…… もしかして、女?
鳥肌が立った。
なぜいままでその可能性を考えなかったのだろう。大学時代に一度痛い目を見て懲りていると思っていたから? 真翔が生まれたあとに、親になったからには若い頃のような羽目を外すことのないようにと義母からきつく言われているのを聞いていたから? ああ、それはあるかもしれない。ちょっと油断していた。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年10月号掲載時のものです。