【前回まで】受験校の校風を知るため、娘の沙優と共に自由が丘国際学院の文化祭を訪れた美典は、情操教育に熱心で自由な校風に、まるで自分がそこで過ごすかのようにワクワクしてしまう。一方、玲子は慶應の併願校にと、夫・翔一、息子・真翔と親子3人で目黒工大を訪れるが、その途中で「次の用がある」と抜けだす翔一の無関心さに落胆する。そして、「もしかして浮気!?」と疑惑が芽生えるのだった……。
【第九話】 小5・10月
木曜日はクリニックの休診日だ。今日もまた、夫は夕方から出かける。ここのところ木曜日に出かける頻度が増えたように、玲子には思えてならなかった。
気にしすぎ? 疑り深い妻は煙たがられる? 真翔を塾に送って帰る道を運転しながら、玲子は逡巡する。あれは先週、真翔が家にいたから塾のない水曜日のことだ。家で食事をしていた時に、翔一はスマホに着信があったにもかかわらず、画面を見ただけで出なかった。「出なくていいの?」と玲子が訊くと、「知らない番号だから」と言い、さりげなく画面をテーブルに伏せるようにして置いた。怪しくないか?
車で出かけることも増えたようにも思う。今日も車で行くと言っていた。田中先生の召集がかかったとかで、先生のクリニックがある飯田橋の店に集まるそうだ。これまでもあるにはあったが、都心の店で飲食するなら、電車で行ってタクシーで帰ってくることが多かったのに。「健康に気をつけるようにしているんだ」などと言って、飲まずに運転して帰ってくるのだが……本当に?
翔一と玲子はそれぞれ車を所有しており、玲子が翔一の車を運転することはないのだが、こっそりナビをチェックしてみた。警戒心の強い人だから予想できたが、気になる履歴を見つけることはできなかった。疑念には磁力がある。一つの疑念を抱けば、泡沫のように湧き上がる疑念を引き寄せる。疑えばきりがないとわかっているが、まあいいわ、と放っておけない。
自宅が見えてきてリモコンで車庫のシャッターを上げた。経年劣化なのか、シャッターの上がる音が大きくなったようだ。真翔が生まれてまもなく完成したから、およそ築十年。不具合も出てくるだろう。ハードもソフトもガタが来るわね。玲子は小さく舌打ちした。そういえばこの家の完成のお祝いとして義父母を招いて食事を振る舞った時に、喜代子は翔一に念を押したのだ。
『家も完成したことだし、真翔の親にもなったのだから、若い頃のように羽目を外さないようにしなさい。自分の社会的な立場をわきまえるように』
よくぞ言ってくれたと思った。あの時に、玲子は保証されたように感じたのだった。リスクをおかしてまで、夫が手にした安定を手放すことはないはずだと。それで油断していたわ。駐車し終えると、玲子はイヴ・サンローランのサングラスを外してケースにしまった。
運転席のドアを閉めて玄関に向かおうとしたら、喜代子が門を開けて入ってこようとしている。笑顔で誰かと話しているのかと思ったら、門の陰からランドセルを背負った莉愛が出てきた。
「その角でりーちゃんと会ったんだよね」
喜代子が言うと、ねえ、と莉愛は愛嬌たっぷりに同意する。
「ばあばがワクデン買ってきてくれたって」
「角煮も作ってきたよ」
玄関ドアの鍵を開けて中に入っていく喜代子の背中に「いつもすみません」と玲子は礼を言う。おとといも来て、手羽先の煮たものを作って持ってきた。そんなに頻繁に来られても困るのだが、口には出せない。
莉愛のランドセルを和室の柱に立てかけるように置いて、玲子はキッチンの裏の洗面所に入る。隣の脱衣所のドアが少し開いていて、水の音が聞こえた。夫は出かける前にたいていシャワーを浴びるので何ら不自然ではないと思うのに、どうしようもなく胸がざわつく。
リビングに戻ると、ソファで喜代子と莉愛が和久傳のれんこん菓子を楽しげに食べていた。笹の葉で包まれたういろうにも似たこの菓子を、喜代子は好きでよく買ってくる。一口サイズのものが八つ入っているだけで四千円以上もして、三日ほどしか日持ちがしない。裕福なおやつ。この小さな菓子を口にするたびに、いまだに玲子はかすかに身構える。生まれた時から何気ないおやつとして食べてきた莉愛は、もう二つ目を剥いている。こういう時に、自分の娘を羨んでしまう。あたしだって、東京のこういう家で生まれ育ちたかった。神取家の一員になっても、自分だけはこの家の文化の外側にいるように感じるのは、「出が違う」という劣等感なのだろう。
「そういえば少し前に、翔一さんと一緒に、真翔の学校選びのために文化祭に行ってきたんですよ」
キッチンで急須に緑茶の葉を入れながら、玲子は喜代子に言った。
「慶應って、たしか十一月だったわよね」
ソファに座っている喜代子は、こちらに顔を向ける。
「目黒工科大学附属中学校っていう男子校の文化祭です。いい学校だったんですよ。真翔も気に入ったようで、翔一さんにも好印象でした」
玲子の言葉に、ふうん、と喜代子は軽く笑う。
「工科大学の附属って、どうなのかしら」
「附属でも、中身は進学校なんです。かなり人気で、偏差値も高いんですから。翔一さんなんて、べつに慶應にこだわらなくてもいいじゃないかって言うくらい」
慶應以外は考えられないという、喜代子の意思はわかっている。そのうえであえて反応を見てみたくて、玲子は話した。
「そりゃ、あの子はそんなふうに言うでしょうよ」
「そうなんですか?」
「あの学校の医学部に入ってくる子たちが血の滲むような努力をしていることは、東京の大きな病院で看護師をしていた玲ちゃんならよく知っているわよね。それで言えば、翔一は出来が違ったわ。嫌味になるから言えないけど、正直、たいして苦労もせずに手にした学歴なのよ。人間って、なかなか手が届かないものに執着するものでしょう。だから、翔一は自分の学歴に執着がないわけ。幼稚舎出身で医学部卒です、それが何か? ってなものよ。自分の子供も慶應に入れたいという執着だって薄いんでしょうよ」
「なるほど……だったら、翔一さんの考えに合わせるというか、あたしもそれでいいのかなと」
「あのね、玲ちゃん」
テーブルに茶碗を置いた玲子に、改まったような眼差しを喜代子は向けた。
「はい」
「あの子は傲慢なところがあるから、自分の力だけでうまくやれていると思っているでしょう。だけど、違うんですよ。あの学校に所属をしてきたから受けられる恩恵というのがあって、それに与かっているからこそ、いまの翔一があるの。そのことを、あの子はわかっていないんです。慶應というのは、たんなる学歴じゃないの。慶應という人脈を手に入れるということ。玲ちゃんも、そこを理解しておきなさいな。まーくんとりーちゃんにも、その恩恵を受けさせてあげたいと思わない? そう思うのが親心でしょう。少なくともわたしはそう思ったものです。なんとしてでも、夫の母校である慶應に幼稚舎から入れるべきだと。そのことに間違いはなかった。翔一の考えなんて聞き流しておきなさい。母親であるあなたの手腕にすべてがかかっているんですから。翔一の母校、普通部に入ること。それが医学部への最短ルートよ」
「わかっています」
「まあ、中等部と湘南藤沢もいいんでしょうけどね」
ふふふ、と含みのある笑みを浮かべ、喜代子はお茶を啜った。
孫たちの進路について語る時、喜代子の圧はいつだって思っている以上に強い。こんな話題を振るんじゃなかったと、玲子は悔いる。慶應という人脈か……莉愛を通してあの学校に通う人たちの世界を見知ったいま、しかし義母の言いたいことはよくわかった。
ねえ、ばあば、と莉愛が玲子と喜代子の会話に割って入ってくる。買ってもらったばかりのスマホを祖母に見せにきた。
「あら、それはりーちゃんの?」
「やっと買ってもらったの」
「周りのお友達がみんな持っているものですから、しょうがなく」
話の矛先が変わったことに安堵しながら、玲子は説明した。莉愛は喜代子に電話をかける。そばにいながら二人は電話で話しはじめた。
「りーちゃんの新しい番号ね。これまでの番号はもう使わないの?」
「これはもう使わないよね、お母さん」
莉愛が棚の上で充電させていたピンクのキッズ携帯を持ってきたので、玲子は受け取る。
「そうね、早く解約しないと」
その時、翔一がバスローブ姿でリビングに入ってきた。
「おふくろ、来てたんだ」
「和久傳のお菓子あるよ、翔ちゃんも好きでしょう」
「支度するから、いまはいいや」
翔一は鼻歌まじりに二階に上がっていく。機嫌のよさそうな背中を見送ってから、玲子は手元に視線を落とす。そうか、キッズ携帯。まだ解約していないから、GPSが機能しているのか。それを翔一の車のどこかに忍ばせれば……。思いついたとたん勢いよく立ち上がり、玲子はテーブルに足をぶつけた。
「玲ちゃん、大丈夫?」
「だっ、大丈夫です……ちょっと、庭に出てきますね」
にこやかにそう言って、玲子はぶつけた足を引きずりつつ玄関へと向かった。
—
「せっかく観に来てもらったのに、いいところがなかったな」
半歩先を歩く洸平がちらっとこちらを振り返る。眉根を寄せて笑うのは、決まりが悪い時に見せる表情だ。
「大きいの、打ったじゃん」
「外野フライだろ。あんなに高く打ち上げたもんだから、しっかり捕られた。試合も逆転されちゃったし」
「2-3でしょう。いい試合だったんじゃないの」
野球に興味がないしルールもよくわかっていないので、とりあえず励ますように美典がそう言うと、まあな、と洸平は頷いた。
沙優が仲良しの李璃子の誕生日ということでお泊まり会にお呼ばれしており、洸平が近所のグラウンドで草野球の試合があるというので、美典は観戦に行ったのだった。中学から高校まで野球部に所属していて、いまも同じ業界の野球好きたちと草野球をしている洸平だが、こうして彼がプレイするのを観に行ったのは三度目だ。前の二回は結婚してまもない頃のこと。沙優が生まれてから応援に行ったのは、今晩がはじめてだ。いいところを見せたいと夫が思うのも無理はないかもしれない。
グラウンドでの試合の後、反省会と称した飲み会があり、それにも小一時間ほど美典も参加した。いつもなら夫は最後まで残るのだろうが、美典のことを考えて途中で切り上げてくれた。声援を送るわけでもなくただベンチに座って観ていただけなのに疲れてしまったので、その気遣いはありがたかった。
家に着いてシャワーを浴びた洸平は、トレパンに上半身裸のままベッドに突っ伏すとすぐにいびきをかき始めた。十月とはいえまだ蒸し暑いし、放っておいても大丈夫だろう。
夫のいびきがうるさい時は、リビングのソファで寝ていたが、今晩は沙優がいないのでそのベッドで寝ればいい。美典もできればソファではなく、ちゃんとベッドで眠りたかった。中年になってからというもの、夫がいびきをかかないことなんてほとんどなく、いっそ彼の仕事部屋にマットレスを買って置きたいと思うも、さすがに躊躇している。
かつてのときめきのようなものを取り戻したい気持ちはなくもないのだ。野球観戦に行ったのも、それを期待したから。けっきょく、くたびれただけだったが。
夫にたいして愛がなくなったわけではない。愛の形が変わっただけ……ときめきを孕んだ愛から、穏やかな家族愛へと変わったのだと、わかっている。愛が成熟したのだろう。そんなふうに納得しようとしても、心は乾いていく。いや、飢えているのかもしれない。夫婦を続けていくほど、その関係の正解がわからなくなってくるものだわ。そんなことを考えながら、美典は食卓で缶酎ハイを開けて飲みはじめる。棚の上の壁に吊るしたアザミが視界に入り、昨日パート先でもらってきたのだと思い出した。枯れかけていたもののドライフラワーにすればおしゃれになりそうだと思ったけれど、生活感しかないこの部屋の中ではみすぼらしく見える。なんだかいまのわたしみたい。
すると、手元のスマホが短く震えた。
[神取玲子]いまちょっと話せる?
[美典] 大丈夫だよ〜
短く返すと、すぐに電話がかかってきた。
「美典さん、ごめんね、土曜の夜に」
「ううん、沙優が友達のおうちにお泊まりしていていないし、夫のいびきがうるさいし、一人で缶酎ハイを飲んでいたところ」
「そのうちに寝室が別々になったりして。中受で夫婦仲が悪くなるって、もはや定説っていうしね」
鋭い玲子に、もうやめてよ、と美典は軽く笑っておく。
「ところで、どうしたの?」
「それこそこっちの夫婦問題なんだけど……。聞いてほしいことがあって」
玲子の声が神妙な色を帯びた。
「何かあった?」
「たいしたことじゃないんだけど……じつはここ最近、夫の行動が怪しくて」
「翔一先生が?」
「この間の木曜日、クリニックが休みの日の夜も、医師仲間との会が飯田橋であるとかで車で出かけたんだけど、なんだか変で」
それはつまり、浮気を疑っているのだろうか。そう思ったが、美典は口にせずに玲子が続けるのを待った。
「それでタブーだとは思いつつも、彼の車に娘のキッズ携帯を忍ばせて、GPSを見たんだけど」
「GPS?」
そんな探偵まがいのことをしたのかと驚いたが、そうとは悟られないように平静を装い、それで? と美典は先を促した。
「飯田橋に行かなかったの。新宿御苑の近くの駐車場に車を停めて、そこからどこに行ったのかは知らないけど、五時間近く停めていたの。怪しいわよね?」
たまりかねたように玲子の声量が大きくなる。たしかに怪しい。そう思いつつも、どうかな、と美典は苦笑まじりに言葉を濁した。
「何か事情があったんじゃない?」
「どんな事情があったにしても、あたしに噓をついたってことは事実よ」
「まあ、そうだね」
「だから今日、あたしも車で行ってみたのよ、その現場に」
「その、新宿御苑の駐車場に?」
玲子の行動力があることは知っているつもりだったが、まさかそこまでとは。
「だって気になるじゃない。まあ、行ったところで、ただの駐車場だったんだけど。隣にマンションがあったの、立派なエントランスの高級そうな」
「そこに用があったってこと?」
「たんなる勘よ。だって、勘を働かせるしかないじゃないのよ」
「わかってるけど」
戸惑った美典に、あっ、ごめん、と玲子は冷静さを取り戻すように謝った。
「せっかく休んでいるのに、こんな話を聞かされて、嫌よね」
「それはいいんだけど……玲子さん、大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないよ。誰かに話さないと感情が爆発しちゃいそうで」
「だよね」
「ねえ、美典さん。人生って考えることが多すぎない? 子供のあれこれだけでも大変なのに、クリニックのこと、義理の家のこと、実家のこと……それに夫婦のことまで」
電話の向こうで深いため息が聞こえた。
玲子は特別な人だと思っていた。いつも優雅で、満ち足りた人なのだと。だけど、彼女も一人の女性としてたくさんのものを抱えて、人知れず足搔いている。苦悩しない人間なんていない。そういう意味で、みんな同じなのか。そんなことを思いながら、美典は枯れかけたアザミを見ていた。
(第十話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年11月号掲載時のものです。