【前回まで】保護者会でクラス担任から声をかけられた美典は、娘・沙優の耳の後ろに百円玉くらいのハゲができていることを知らされる。「中学受験のストレスかもしれない……」と動揺するものの、成績が上がってきた今、「中受から撤退するなんて考えられない」そんなふうにも思うのだった。「勉強しながら何となく髪を抜いちゃった」という沙優の無邪気な表情に、美典はひとまず安心するが……。
【第十五話】 小6・4月
スマホの電卓に出た合計を見て、美典は低く唸った。五年生の一年間にかかった塾の授業料、講習会や模試の費用も含めたものをざっと合計してみると、七十万円を超えていた。美典の一年間のパート代の七割近い金額が沙優の塾代になっているわけだ。家計の支出における塾代のパーセンテージの大きさを思い知る。
六年生になれば、授業数も模試も増えて百三十万円を越すだろう。さらに、私立中学校に合格したあかつきには、入学金などまとまった出費が見込まれているため、そのための積立もしなくてはならなかった。中学受験はお金がかかるものだと聞いていたので覚悟していたが、思っていた以上だ。
洸平の収入は同世代の中ではけっして少なくないし、株の投資など資産運用もしてくれているが、今後の教育費を考えると正直心もとない。沙優が中学生になったら、フルタイムで働けるところを探さなくては。香代さんのあの店でのパートが楽しいので続けていたが、あまり悠長なことを言っていられなさそうだ。
良心的な啓セミでこんなものなのだから、授業料が高いことで有名な鉄アカなんていったいいくらかかるのだろう。そう考えて、神取家のことが頭に浮かんだが、玲子が塾代を計算しているとは思えなくて、美典は一人で笑った。
よそはよそ、うちはうち。そう言い聞かせても、経済的に余裕のある玲子やエレナのことが羨ましい。エルメスやディオールといった有名ブランドの服やバッグの値札を見ることもなく買えるような生活がしたいわけではないが、頭の中で電卓を叩かずに子供の進路を考えることができたら、もっと気持ちが楽だろうと思ってしまう。
電卓の画面を指で払ってスマホの時計を見ると、四時をすぎていた。沙優はまだ帰って来ない。塾がない日は、友達と教室でしゃべっているようで遅くなりがちだ。と思っていたら、玄関ドアの鍵を開ける音がした。ほどなくしてリビングのドアが開き、ランドセルを背負った沙優が入ってきた。

「ただいまー」
「おかえり。遅いね。また李璃子ちゃんとかとおしゃべりしてたの?」
「ミュージカルごっこしてたの、楽しかった」
「なあに、ミュージカルごっこって」
「なんでもミュージカルっぽく歌うようにしゃべるの。やっぱり李璃子はうまいんだよ。さすがホンモノ」
沙優のクラスも半分以上が塾に通っていると聞くし、受験率は高いと思うのだが、沙優の仲良しグループは李璃子をはじめ、非受験組もいるようで、放課後の時間の使い方がのんびりしている。
「おしゃべりするのもいいけど、塾がない日でも早めに帰宅してよ。宿題が終わりきらないんだから」
「わかってるよ。だからみんなはまだしゃべってたけど、沙優は先に帰ってきたの。ちょっと息抜きで友達としゃべるくらい、いいじゃん」
たしかに沙優の言うとおり、うまく息抜きをしないことには続かないだろう。
「さっさと手洗いうがいしておいで」
塾は平日の月水金と、土曜もあって、それぞれ四時間。平日は途中に二十分の食事休憩があるとはいえ、学校が終わった後に長時間の勉強は大変だろう。状況によっては、延長授業も行われる。九月以降になると、日曜日にも長時間の特訓授業がはじまる。四教科すべてに宿題が出ていて、塾がない日ものんびりしていられない。
真面目が取り柄の沙優だから、内容の難しさや量の多さに泣き言を言いながらも自走していて、先月末に行われたレビューテストでこれまでの最高得点を更新し、四教科の偏差値が六十三だった。結果、クラスが上がって念願の一番上のEクラスに入ることができ、沙優はもちろん、美典も泣いてしまうほど喜んだ。
ただ、歓喜の大波が引いた後には、ざらざらとしたものが残った。まだまだ頑張ってほしいという執着と、こんなにも負担をかけ続けて大丈夫なのかという不安。出費のこともそうだが、中学受験のシビアな現実は予想を上回っていた。
そこで気になるのは、やはり抜毛症だ。発覚してすぐに、翔一先生に診てもらい薬をもらった。それが効いているのか、禿げていたところに産毛が生えてきている。沙優にも、これから絶対に抜かないように注意していて、本人も理解しているようだが、注意が必要だと思っていた。「同じ症状で来る小学生が多いのよ」と玲子も言っていたし、小田原先生も香代さんも同じようなことを言っていた。受験生にはよくあることなのだと思うものの、美典のショックは大きかった。
とはいえ、本人も頑張っているのに、それを理由に撤退するわけにはいかない。言いたくはないが、コストと時間がかかっている。
「まず何からはじめる? 国語?」
リビングの一角に作った棚に積んだテキストやプリントを片付けながら、美典は訊いた。
「算数にしようかな。昨日の平面図形がムズかったから」
「じゃあこれね」
算数のテキストとノートを、沙優の勉強スペースとなったダイニングテーブルの定位置にセッティングしていると、パーカのポケットの中でスマホが震えた。取り出して見ると、玲子からだ。普段はメッセージを送ってくる玲子だが、電話をかけてくる時はたいてい玲子の感情の緊急度が高い。
「もしもし、どうかした?」
「忙しい時間にごめんね。少し話せる?」
案の定、玲子の声が硬い。きっと例のことだろうと見当がつき、
「大丈夫だよ」
そう言って、美典は沙優のいるリビングを出て寝室に入った。
「いま、翔一と元カノが一緒にいるところを見たの」
玲子は冷静を装っていたが、張り詰めた状況だと察することができた。
「一緒に? 玲子さん、いまどこにいるの?」
「つばきの……そのクリニックの近く。今日、クリニックが休みで、午後に翔一が車で出かけたから、GPSをチェックしつつあたしも車で追ったのよ。思ったとおり、新宿御苑のいつもの駐車場に停まって、あたしも近くのパーキングに停めたの。翔一が車から降りたその先は追跡できないから、とりあえずつばきのクリニックのほうへ向かったんだけど、道の途中で、二人が一緒にいるところを見つけて……」
「二人は、玲子さんには?」
「気づいていない。少し離れて尾行したら、二人はスペインバルに入って。あたし、その近くにいるの」
それにしても玲子の行動力には驚かされる。美典は想像するだけでドキドキした。
「玲子さん、どうするつもり?」
「後ろ姿だけど、二人が腕を組んでいるところは撮れたのよ。ここから先の選択肢として三つで……。店の中に入って現場を押さえるか、二人が出てくるのを待って、どこに行くのかさらに尾行するか、ここで帰るか。あたし、どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって、訊かれても……」
「やっぱ、いますぐにでも」
「ちょ、ちょっと待って!」
思わず叫んで、美典は玲子を止めた。
「うん、玲子さんの気持ちはわかる。わかるけど、いったん落ち着こう」
そう言いながら、美典も自分自身が冷静になろうとして長く息を吐きながら考える。その三択の中で、どれがベストなのか。
「まずね、わたしが思うには、いますぐ突撃するのは良くないと思うんだ。お店にはその二人以外にもお客さんがいるかもしれないし、少なくともお店の人がいるわけで」
「迷惑だってこと?」
「じゃなくて、迷惑かどうかなんてどうでもいいんだけど、それよりも玲子さんがその状況に耐えられるのかが心配なわけ。同じ理由で、二人が出てくるのを待って、その先を尾行するのもいいとは思わない。食事なんていつ終わるかわからないのに、外で待ち続けるのも、食事を終えて楽しげな二人の背中を追うのもきついんじゃない? 玲子さんがそんなことをする必要ある?」
「ここで帰れってこと?」
「わたしが決めることじゃないよ。ただ、わたしが大事なのは、玲子さんだから」
美典の言葉を受け止めるようにしばらく黙ってから、玲子はため息をついた。
その時「ねえ、ママ!」と背後で沙優に呼ばれる。美典は振り返り、沙優に人差し指を口の前に当ててみせた。電話中だとわかった沙優は無言で頷く。
「ごめん、沙優ちゃんが呼んでるね」
「いま、学校から帰ってきて」
「うちの子たちも帰っているわ。夕飯の支度もしなくちゃ」
「そうだよ。とりあえず、帰ったらどう?」
「わかった……ありがとね、いつも聞いてくれて」
「ううん、いいよ」
「じゃあまた連絡する」
玲子はそう言って通話を切った。
「どうしたの?」
「算数の解答がないの、知らない?」
解答ね、と言って美典は沙優といっしょに寝室を出た。
玲子さん、大丈夫かな。受験生を持つ母親というだけでも心労が絶えないというのに、不倫している夫と愛人を尾行している玲子の姿を思い浮かべれば不憫でならなかった。お金の計算で唸っているほうがまだましだわ。
—
棟方つばきという女性は、自分と翔一を繫いでくれた存在だった。だからこそ、玲子の中でもその名をずっと忘れずにいた。
翔一が大学在籍中に痴情のもつれで警察に厄介になったことがあると聞いた時、意外だと思った。いかにも恋愛に慣れていそうなプレイボーイなのだと、翔一のことを見ていたからだ。若気の至りとはいえ暴力沙汰はよくないが、冷静になれないほど熱い気持ちを持てる人なのだと知れて、むしろ玲子は翔一に好意を抱くようになった。つまり、つばきの存在が、玲子の心に火をつけたわけだ。
夜十一時すぎに帰宅し、翔一はリビングのドアを開けて入ってきた。
「おかえりなさい」
ソファに座っていた玲子が声をかけると、おう、と翔一は驚いた顔をする。

「起きてたんだ」
「遅かったわね」
「ご飯の後に雀荘に行ったから」
「中高の時の友達だっけ?」
「そうそう、健吾」
「健吾さんって、オシャレなのね。ディオールのブルゾンにきれいなオレンジのスカートを合わせていて」
「は?」
「新宿御苑のスペインバルも良さげね。あたしも今度行ってみたいな」
そこまで言うと、キッチンのほうに向かっていた翔一はこちらを勢いよく振り返った。まだ事態を飲み込めていないのか、その目は探るような色を滲ませている。
「何の話?」
とぼけた顔を見せる夫を見て、玲子はほとほと嫌になる。冷静になろうと決めていたのに、無理そうだ。ソファから立ち上がった玲子がスマホに保存した画像を指で広げて拡大したところを差し出すと、翔一はそれを受け取り、凝視したまま固まった。
「腕なんか組んじゃって、ずいぶんと仲が良さそうで」
「なんで?」
翔一は訊いた。自分の噓を暴かれる証拠を見せつけられながら、かすかに嫌悪感のようなものを表情に浮かべて、玲子を見る。
「莉愛が使っていたGPS付きのキッズ携帯をあなたの車の助手席の下に忍ばせて、あたしも車で追ったのよ」
「GPS?」
「あなたが車を降りた後は、棟方つばきのクリニックのほうだろうと思ってそちらに向かったら、案の定、途中の道で見つけた。あなたたちが寄り添うようにして歩いているのを」
「ちょ…… ちょっと待って」
「言い訳しても無駄よ」
「じゃなくてさ…… 棟方つばきって、なんで知ってんだ?」
「病院で働いていた時の飲み会で、高原先生が暴露したじゃない。慶應医学部の同級生でダントツ美人だった棟方つばきって人と付き合っていたんだけどあっさり振られちゃって、激昂したあなたが棟方つばきさんの新しい恋人を殴って大事になったって。あたしだけじゃなく、あの時に一緒に働いていたメンバーなら知っているようなこと」
玲子の説明を聞いて、何だそれ、と翔一は顔を歪めた。
「他人のプライベートを陰で言いふらすなんて最低だな」
「親友に言いなさいよ。過去なんてどうでもいいわ。まさかいまだに彼女と繫がっているなんて思わなかった。元日の夜、お義父さんの家から帰ってきたあなたがソファで寝ちゃって、起こそうとしたら、あなたが呼んだのよ…… 『つばき』って、お正月に酔っ払って」
「そんな、呼ぶわけがないだろう」
「覚えていないだけよ! 『つばき』って聞いて、すぐにピンと来た。最近車で出かけることが増えたのは、元カノに会いに行っているんだろうなって」
「それで尾行したのか、俺のこと? いくら妻だからってやっていいことと悪いことがあるだろ。人の行動を追跡するなんて、お前、正気か?」
夫の言葉を聞いて、玲子の中で何かが切れた。
「正気かどうか? もう、あたしにだってわかんないわよ! 褒められたことじゃないくらいには理解している! でもね…… こんなことをさせたのはあなたよ! よくもまあ……」
玲子は言葉を詰まらせた。よくもまあ、被害者みたいな反論ができるものだ。
「あたしの絶望をちょっとでも想像してみて。棟方つばきって検索した時の、あなたの車を追っている時の、あたしの気持ちを考えてみてよ。あの駐車場で停まって、ああ、やっぱりねってなった時の……」
家を出た時からもうすでに直感していた。ハズれてほしい直感だったけど、当たってしまったからには、もう見て見ぬふりはできない。
「大学時代、つばきとは付き合っていた。それに、今日も会っていた。噓をついたのは悪かった、謝るよ、ごめん。あいつ、二年前にクリニックを開業したんだけど、運営について悩んでいるみたいで、相談に乗ってほしいって連絡が来て、それから会うようになった。つばきは帰国子女っていうのもあって、距離感が近いんだよ。すぐに腕を組んできたりするから。それで……」
翔一はまくし立てるように言ってから、最後のところで言い淀んだ。
「それ以上のことはない? そう言いたいの?」
もうやめてほしい。これ以上、騙そうとしないでほしい。あたし以外の女を、呼び捨てにしたり、〝あいつ〟と呼んだりしないでほしい。嫌気が増す一方で、なぜか、怒りは肚の中に沈んで、心が凪いでいった。
「だったら、どうしてこんなに遅い帰宅になるの? 雀荘じゃなくて、彼女の部屋に行ったんでしょう? だからこんなに遅くなったんでしょう?」
「玲子」
「あたしは、あなたみたいに頭は良くないけど、それくらいの想像力はあるよ。バカにしないで」
絞り出すように言ったとたん、涙が溢れ出た。
悔しい。こんな状況で、泣きたくなんてない。まるであたしがこの人を失いたくなくて泣いているように思われたら最悪じゃないか。
玲子はしゃがみ込み、膝頭に顔を埋めるようにした。その時、パタッと、小さな音がする。
「莉愛、どうした?」
翔一がそう言うので顔を上げると、パジャマ姿の莉愛が二階から下りてきてリビングとキッチンの間に立っていた。玲子は慌てて涙を手の甲で拭う。
「パパ……眠れない」
「ああ、ごめんな。パパとママの声で起こしちゃったか?」
「ううん、あいつ……真翔が。ベッドの中でゲームしてるの、その音がうるさくて眠れないの。注意してもやめないんだよ、どうにかして」
眠そうに目を擦っている莉愛を見てから、玲子は両手で顔を覆った。もう嫌だ。どいつもこいつも、いい加減にしてくれ! 何もかも投げ出してしまいたい。
(第十六話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2025年5月号掲載時のものです。