【前回まで】いよいよ中受本番を迎えた二月一日、美典は娘・沙優を第一志望の自由が丘国際学院中学校まで送り、ひとり校舎の中に消えていく娘の後ろ姿に、「もう二人三脚はできない。大人の世界へと駆けていくんだ」と、一抹の寂しさを感じる。一方、玲子は息子・真翔の慶應受験を前にし「慶應がダメだったら目黒工大に行く」という息子と、「慶應以外はもってのほか」という義母との狭間に立ち、感情が揺れに揺れて……。
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【中学受験小説】いよいよ迎えた運命の5日間。「慶應以外はダメよ」第二志望合格の報告に、祖母が無情に言い放つ
【第二十四話】 合格発表
「お母さん、もう三時すぎてるよ」
真翔に言われなくても、わかっている。握りしめているスマホのホーム画面をずっと見つめているのだから。
2月4日 15:03
頭が朦朧とする。昨夜、玲子はほとんど眠ることができなかった。
二月三日の十三時に、慶應義塾普通部の合格発表、そして慶應義塾湘南藤沢の一次試験の合格発表が同時にあった。真翔は中等部の一次試験を受けていたので、玲子は一人で確認した。
いま思えば、なんて勇気があったのだろう。昨日のことなのに、その時の自分の心持ちが思い出せない。どういうつもりで、たった一人で結果を受け止められると思っていたのだろうか。どこかで楽観していたのだろう。これだけやってきたのだから、どちらかは合格をもらえているだろう。そう思えるだけのことを、真翔はやってきたのだと信じていた。少なくとも信じられるだけの、時間とお金はかけてきた。
最初に湘南藤沢を確認し、そして普通部を確認した。
どちらも不合格だった。
あまりにもあっけなくて、現実味がなかった。
「ねえ、もう見ようよ…… 気になるよ」
玲子の後ろに座っている真翔が焦れたように言う。スマホが震えた。義母の喜代子からだ。今日十五時に中等部の結果が出ることを昨日伝えていたので、その確認の電話だろう。着信を無視していると、十回ほど震えたのちに止まった。
もう逃げられない。
覚悟を決めて、玲子はスマホを操作する。事前に届いた合格発表のログインメールアドレスにアクセスした。
「待って、お母さん。俺が見る」
真翔がそう言って、後ろからスマホに手を伸ばす。
「まーくんが?」
「だって、俺の受験だよ」
たしかに、そうだ。昨日は真翔がいなかったから玲子が確認したが、受験した本人がいるのだから、本人が確認するのがいいに違いない。アドレスとパスワードを入れて、合格発表の結果を見るだけの状態で真翔にスマホを渡した。すると、真翔は少しのためらいもなくタップする。
「ちょっと…… 待ってよ」と引き止めようとした時には、すでに結果が画面に現れたようで、真翔はフリーズした。
そして、スマホを投げつけるように床に放り出す。
不合格
その三文字が目に入ったとたん、玲子の中の何かが切れた。
「なんで……なんでなんでなんで!」
ダメだ、現実として受け止められない。
「どうしてダメなの? まーくん頑張ったよね? できることは全部やってきたよね?」
「がんばった……けど。俺もわかんないよ」
また義母から着信の入ったスマホを投げ出し、玲子は床に突っ伏した。
「お母さん、目黒工大に行きたい。いいよね?」
真翔の声が訊く。
「ねえ、 お金を振り込んでくれたよね?」
「やめて!」
玲子は息子の手を払いのけるようにして上体を起こした。
「だって……」
「目黒工大なんて、おばあちゃんが許してくれるわけないでしょう!」
「なんで? どうして慶應以外はダメなの?」
「ダメなものはダメなの!」
その時、インターフォンが鳴る。義母だ。玲子は耳を塞いだ。
「出ないの?」
「無理!」
玲子はスマホを持って二階に上がり、自分のクローゼットに入って鍵を閉める。インターフォンがしばらく狂ったように鳴り続け、同時にスマホにも鬼のように着信が入った。
お願いだから…… お義母さん、許して。
一時間ほど経った頃、インターフォンが鳴り止んだ。が、しばらくして階段を上がる音がする。話し声が近づいてきた。莉愛の声。相手は喜代子だ。莉愛が帰ってきて鍵を開けたのか。クローゼットのドアノブが回される。
「お母さん、ここ? ばあばが来てるよ」
莉愛が言う。
「玲ちゃん! 玲ちゃん! あっ、まーくん。結果は?」
真翔も部屋から出てきたようで、喜代子が訊いている。
「おばあちゃん、目黒工大に行きたい。いいよね?」
「やだ、もう…… ダメだったんだ?」
ああ、と喜代子の大きなため息が聞こえる。
「目黒工大は合格したんだから、いいでしょ?」
「悪いこと言わないから、公立に行って高校受験しなさい。高校なら、義塾だけじゃなく慶應志木もあるものね。あそこも優秀よ」
「なんで慶應だけなの? ほかの学校でもいいじゃん」
「まーくんのためよ。玲ちゃん、開けなさいな。ダメだったものはしょうがないよ。切り替えましょう。高校受験でリベンジよ」
この人、どういう神経しているんだろう。幼稚舎の不合格をもらってからこの六年間、玲子がどんな気持ちで真翔の伴走をしてきたのか、少しでも想像したのなら、こんなに簡単に高校受験でリベンジなんてすぐに口から出てこないはずだ。
「お義母さん、すみません…… 今日は帰っていただけますか」
玲子はドアに向かって声を絞り出す。
「落ち込むのはわかるけど、ねえ、こっちに出てきて」
「すみません…… 今日だけはそっとしておいてください」
—
「おい、玲子」
ドアがノックされる。翔一の声で目が覚めた。クローゼットのソファに横たわりコートをブランケット代わりに頭からかぶっていたら、いつのまにか寝ていた。慌ててスマホの画面で時間を確認すると、十九時をすぎている。不眠が祟ったのか、気絶したように眠ってしまっていた。玲子がドアを開けると、翔一がホッとしたようにため息をついた。
「莉愛から着信が何件も入っていて、母親からはクリニックにもかかってきて…… 心配したよ。真翔のこと、聞いた。残念だったな」
「あたしがいけないの…… あたしがもっと優秀な母親なら」
「玲子はよくやってくれているよ。受験なんて水ものなんだから、望んでいる結果が出ないことなんてよくあることだ。目黒工大には合格をもらえているんだし、それだけの実力が真翔にあるって証拠だろう。玲子がサポートしてやってくれたおかげだよ」
「目黒工大に合格をもらったところで、どうしようもないじゃない。真翔は行きたがっているけど、そんなの無理だし」
「どうして無理なんだ? 行けばいいじゃん」
そんなことを軽く言う翔一を、はあ? と玲子は怪訝に見た。
「お義父さんとお義母さんが許さないでしょう。もしもダメだったら公立にって言われているし」
「勝手に言わせておけばいいって。真翔は目黒工大に行きたいんだろう? だったらそうすればいいだけの話だ。文化祭も活気があって、いい学校だと思ったよ」
「あなたがよくてもダメよ! 慶應じゃなくちゃ!」
玲子は両手で顔を覆い、はげしく首を横に振った。
「神取家の嫁として、真翔の母として、なんとしても慶應に入れること…… それが最優先の使命なのに」
玲子の言葉を遮るように、翔一が玲子の肩を抱きしめた。
「使命って…… 大袈裟な」
「大袈裟? 真翔のお食い初めの時にお義父さんは言ったわよね。真翔も幼稚舎だなって。それを叶えることができなかったから、中受で何としてでもって…… あたしがどれだけ」
「悪かった、ごめん。そこまで玲子を追い詰めてたなんて」
「そこまでって何よ? あたしが見当違いなことを思い詰めてきたとでも言いたいわけ?」
翔一から身体を離し、玲子は挑むように言う。翔一は困り果てたような目で玲子を見ていた。
「母校だから、俺だっていい学校だとわかってる。俺の親が、慶應という学校にこだわるのもわからないでもない。だけど、それ以外の選択肢がないっていうのは違うと思っているんだ。俺の中では、ずっとそのスタンスだった。ただ、あの親に真っ向から反論するのが面倒で、見て見ぬふりをしてきた。玲子が真翔の受験に躍起になっているのもわかっていたけど、同じ熱量で興味を持つことなんてできないし、正直、勝手にやってくれって思ってしまっていて」
家の面倒を玲子に押し付けて、見て見ぬふりをしていた? 勝手にやってくれだ?
「家の中にいても休まらないから、あたしといても面白いことなんて何一つないから…… だから、あの女のところに」
思わず夫の不実を蒸し返すような言葉が出てきてしまう。
「半分は否定できないけど、半分は違う。家から逃げ出してよそに居場所を見出そうとしたのはそうかもしれない。だけど、虫が良すぎると責められてもしょうがないけど、俺はこの家が好きだし、玲子がいいんだ」
「何それ」
本当に、虫が良すぎて言葉を失った。ただ、同時に後ろめたさを覚える。これまで義父母の望むように子供たちに尽力することで頭がいっぱいだった。夫の不貞行為は許し難いけれど、それが彼への愛情から湧き上がる感情かどうか、玲子にもわからない。
「この状況で改めて言い訳するのもおかしいけど」
「おかしいわよ! 本当にあなたって自分勝手……。それよりいまは」
「うん、そうだな。で、目黒工大はまだ間に合うんだろ?」
翔一に真っすぐに見つめられ、玲子は迷いを捨てるように頷いた。
「明日の十二時までに二十万円を振り込めばいいみたい」
「いま振り込むよ。母さんには、俺から話す」
翔一がズボンのポケットからスマホを取り出すので、玲子は廊下に出る。真翔の部屋のドアをノックした。
「真翔」
声をかけてみたが返事がない。ドアを開けてみると、そこに真翔はいなかった。
「真翔は?」
翔一が訊くので、玲子は首を横に振る。
「リビングかも」
一階に下りると、リビングで莉愛が宿題をしていた。
「お母さん、大丈夫?」
「ごめん、心配かけちゃって。お腹も減ったよね。真翔はどこ?」
「帰って来てないけど」
「帰ってこない? どこかに行ったの?」
「ばあばが帰った後に、外に出ていったんだよね」
義母が帰ったのは、夕方の四時から五時の間だろうか。もう七時半になろうというのに、まだ帰っていないのは心配だ。真翔のスマホにかけたが出ない。GPSを確認すると自宅にあった。
スマホを持たずに? あの子が?
「真翔がいないの。スマホでゲームするのが大好きなのに、手ぶらで出かけるなんて」
玲子は翔一に言って、真翔の部屋に入る。机の上にノートが広げられていて、強い筆圧で走り書きが残されていることに気づいた。
『期待にこたえられなくてごめん』
—
夕飯を食べ終えて食器を片付けているとスマホが震えた。画面には『神取玲子』とあり、美典は濡れた指を拭くより先に出た。
「玲子さん? おひさしぶ……」
「美典さん! あのね、真翔がどこにいるか知らない? そちらにいないよね?」
電話に出たとたん早口で捲し立てられ、美典は気圧された。
「知らないし、こっちにももちろんいないよ。真翔くん、うちに来たことがないし」
「ああ、だよね」
「どうかしたの?」
「真翔がいなくなったの。いま交番で相談して、夫といっしょに探してもらっているの。あたしは心当たりに連絡してって思ったんだけど、あの子が学校の誰と仲がいいのかもよく知らなくて」
「いつからいないの?」
「四時から五時の間に家を出たみたい。机にメモがあって、『期待にこたえられなくてごめん』って…… あの子に何かがあったら」
電話の向こうで玲子が泣きじゃくり、美典は手が震えた。
とにかく玲子のところに行こう。玲子は交番の近くにいるという。
美典が自転車で駆けつけると、玲子は交番の中にいて、こちらに気づくと外に出てきた。玲子は美典と向き合うやいなや、堰を切ったように泣きながら話しはじめた。
「慶應がダメだったの…… 三校とも。あんなに頑張ったのに、できることはすべてやったのに、ダメだったの。あたし、ショックすぎて…… あの子に、合格をもらった目黒工大に行きたいって言われたんだけど、ダメなものはダメだって頭ごなしに怒鳴っちゃって……」
自転車のスタンドを立てて、美典はコートの上から玲子の背中に手をそっと置く。泣きじゃくる小さな子供をあやすように背中をトントンと叩いた。
「玲子さんも辛かったね」
「ううん、ひどい母親だよ」
「あのね、沙優も自由が丘国際、一回目と二回目を受けたけどダメだったの。二月二日の青明女子も不合格で、一日午後の優華学園は合格をもらえていたんだけど、沙優がどうしてもって言うから、渓星大学第一中を昨日受けてきたんだ」
「昨日? ごめん、疲れている時に…… 結果は?」
「合格だった」
「沙優ちゃん…… よかったね。おめでとう」
顔を上げた玲子に、美典は小さく頷きかけた。
「ありがとう。でも、わたしの心の整理がついていないんだ。だから、いまの玲子さんの気持ち、痛いほどわかるよ」
合格したことだけを喜んであげられたらいいのに。合格できなくたって、よく頑張ったねって言ってあげることが大事なのに。そうわかっているからなんとか笑顔を見せたけれど、「おめでとう」を上手に言えた自信がない。
自由が丘国際の不合格に大泣きした沙優だが、渓星大学第一中の合格をもらうと、驚くほど喜んで、ものの数分で気持ちを切り替えてしまった。やっと終わった! 明日から遊んでいいよね! そんなふうに明るく言われて、美典は混乱しつつ何とか微笑んで頷いた。子供にしてみれば、進学先が決まるのと同じくらい、これまでの受験の重圧から解放されることへの喜びが大きいのだろう。
ふいに、交番から警察官が出てきた。
「お母さん、ここにいましたか。電話に出られないから」
「あっ、すみません…… 気づかなかった」
「息子さん見つかったって」
「本当ですか! 真翔はどこに?」
「もうすぐこっちに着くって。よかったですね」
体格のいい警察官は明るくそう言うと、ほら来た、と美典の肩越しに目をやる。振り返ると、背の高い痩せ型の警察官に手を引かれている真翔の姿があった。
玲子は真翔のもとへ走り出し、その身体を抱きしめる。
「まーくん!」
「真翔くん、心配したよ。どこにいたの」
美典がそう言うと、あのマンションですよ、と痩せ型の警察官は遠くを指差す。
「危なっかしい子供って、視界に入る高いところに行くことがよくあるんです」
「危なっかしい子供?」
「あのマンションも外階段だし、オートロックじゃないから簡単に入れちゃうんですよね。彼、一番上の階の踊り場のところでうずくまっていました。早く見つけられてよかったですよ」
その警察官が言いたいことを理解して、ぞっとする。マンションの一番上の階まで行ったというのは、つまり……そういうことなのだろうか。美典の全身に鳥肌が立った。
玲子も同じように察したのだろう、叫ぶように嗚咽した。
「真翔! ごめん…… ごめんなさい!」
玲子にしがみつかれ、真翔も泣きじゃくる。
「真翔……」
近所を捜していた翔一先生がやって来て、号泣して抱き合っている妻と息子を前に呆然と立ち尽くした。
美典はため息をつきながら空を見上げる。ぎりぎりのところだった。一線を越えてしまう前に間に合って、本当によかった。
ネオンでぼんやりと明るい夜空は静かで穏やかだ。薄い雲の隙間に見える小さな星を見つめていたら、美典は夢から覚めたような心持ちになった。
そして、気づいた。とても大事なことを忘れていたことを。
子供が元気でいてくれさえすれば、いいのだった。
こんなにも当たり前のことを忘れてしまうくらい、中学受験という狂乱に飲み込まれてしまっていたようだ。
「でも、もう…… 終わったのか」
そう思ったら、次第に心が軽くなってきた。
早く沙優に会いたい。会ったら今度こそ、満面の笑みで言ってあげなくては。
おめでとう、と。
(第二十五話をお楽しみに!)
イラスト/緒方 環 ※情報は2026年2月号掲載時のものです。





