「私たちのCHALLENGE STORY」担当の編集Rです。同連載の4月号では毎年、東日本大震災をテーマに取り上げてきました。9月19日の東電刑事裁判判決を前に、「東電刑事裁判判決を控え映画を観て講演を聴く会」が開かれると知り、9月4日(水)、参議院議員会館に足を運びました。
会では弁護士の海渡雄一さん、福島原発告訴団の団長・武藤類子さんにより、37回にわたる公判の中でどのような証拠が提出されたか、証言があったかなどが伝えられました。配布された資料、「東電刑事裁判判決を控えて――動かぬ証拠と弁護人の弁論に対する反論」によると、原発事故により避難を余儀なくされた入院患者のうち44名が亡くなったとされる(起訴状による)双葉病院事件について、次のような生々しい証言がありました。
※双葉病院は東京電力福島第一原発から南西約4.5kmに位置し、’11年3月11日の時点では寝たきり状態の高齢患者ら338人が入院し、近隣する系列の介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」にも入所者が98人いた。
「看護副部長は『患者の顔がよく分かる私が現場に向かったほうが素早い対応ができると思った』と説明しました。看護副部長は患者が乗ったバスが(いわき市内の)高校に到着した時の状況について、『バスの中は異臭がすごく、座ったまま顔が蒼白になって明らかに亡くなっている人がいた。座席の下に丸まって落ちている人もいてとても衝撃的だった』『自分が担当していた患者さんも亡くなっていた』と証言しました。この時、看護副部長らはバスの中で3人が亡くなっているのを確認しました」。
「この避難活動にあたった自衛官の供述調書から3月15日朝の第3陣の避難の際の『双葉病院』での状況も明らかになりました。
自衛隊の救助作業中に『線量計の音の鳴る間隔がどんどん短くなり、放射線の塊が近づいてくるような感覚だった。医師免許を持った自衛官が「もう限界だ」と叫び、すぐに病院を出発するように指示をした』とされ、現場が事故により高線量となり、避難チームに女性の看護師もいたため、女性労働者の線量限度(5ミリシーベルト)を超えると判断し、入所者47名が搬送された時点で、救助作業が打ち切られ、多くの患者が取り残されたことが明らかになりました」。
「母を奪われた女性の調書では、『体育館で母の安否を確認した。自衛隊の車で12時間、200キロの搬送で死亡との説明だった。速やかな搬送よりもスクリーニングが優先された。人間としての尊厳などまったくない状態でバスの中に転がされていた。せめて暖かな場所で最後を看取りたかった。ただただ、いとしい母でした。思いがこみ上げます。私は原発事故でふるさとと母を一瞬で奪われました。改めて原発事故に強い怒りを覚えます』と意見が述べられています」。
会の終わりには武藤類子さんにより、双葉病院事件で両親を失くした方の証言が読み上げられ、参加していた当時の首相、菅 直人氏は額に手を当てて聞いていました。証言は「絶対に許さない」という言葉で締め括られました。
この裁判の被告人である旧経営陣の3人はいずれも無罪を主張しています。
「原発の安全について責任は現場にある。私に責任が全く無いとは言わないが基本的に無い」(元会長・勝俣恒久)
「報告を聞いた記憶がない」(元副社長・武黒一郎)
「自分には対策を取らせる権限はない」(元副社長・武藤 栄)
この刑事裁判で何が明らかにされたのか? わかりやすくまとめられた短編映画「東電刑事裁判 動かぬ証拠と原発事故」をぜひ観てみてください。裁判であぶり出された真実が26分間に凝縮されています。
‘17年4月号のタイトルの時系列部分にのみ手を加え、筆を置きたいと思います。
「誰もがいつでも被害者になりうる。原発事故から8年経った日本の現実です
忘れたくない、誰もが“福島”の当事者です」。