夫と離婚したくとも、子供が大事。だから何かしらの我慢をしている40代は多いはず。そんな中、子供を無事育て上げた後に育まれる愛もあると思うと勇気がもらえます。
子育て後再婚
◯ 話してくれたのは...石田ゆりえさん(仮名)
41歳で離婚するまで、元夫とは山場が3回ありました。
1回目は娘が小学校受験目前の6歳の時。以前から夫の女性関係を疑う出来事があったのですが、裏を取る方法がなかったのと、「きっと違う」と否定する気持ちが大きくて決め手がなかったのです。
ところがある日、夫の書斎にお茶を持っていった時、「あの時楽しかったね」と明らかに女性と話している会話が、ドア越しに聞こえてきました。電話を切るのを待って、その場で問い詰めました。するとお酒を飲んで酔っているのもあり、開き直って、「そう。交際してる」と言ったのです。そして「相手も家庭持ちで、子供もいる」「パソコンのオフ会の仲間」と馬鹿正直に喋り出したのです。以来、何度も話し、罵り合い、謝られても納得できない私は離婚を決意し、互いの両親を呼んで話し合いました。
しかし離婚届を出しに行く朝、「2度と浮気はしないから、もう1度チャンスが欲しい」と平身低頭に謝り、私も娘の顔が浮かび、「執行猶予で様子を見させて頂きます」と離婚中止、以来ずるずるとした日々が始まりました。
私たちは広告代理店の上司と部下で出会い、1年間の交際後私24歳、夫34歳で結婚。夫はオシャレな感覚の持ち主で、発想がユニークでアーティスティック。私は父が国立大学医学部の医師の家庭で裕福に真面目に育ち、夫はこれまでの私の人生にはない感覚を持っていました。
外に出るのが好きな私に対して、夫はオタク。読書や映画鑑賞など多くの趣味を持ち、家で過ごすのが好き。そんな自分とは真逆なところにも惹かれました。それで結婚する時の夫の希望が、10の時間の半分の5は自分の時間を持ちたいと。えっ、と思ったけど、お互い自分の時間を持てるのは有意義だと、その要望を許しました。
すると、自分の部屋でビデオを観たり、本を読んだりしながら、ご飯を食べたいと言うので、毎回夫の部屋にご飯を運び、結果結婚生活の中で数回しか家族で食卓を囲むことはありませんでした。結婚の翌年には娘が生まれましたが、子供という存在に興味がなく、私に任せきり。私と娘は毎年夏休みはハワイで過ごし、夫は別の場所に旅行に行き、たまに合流するという感じ。「夫」「父親」というよりも完全なる同居人で、私は家政婦だといつも冗談半分で言ってました。でも経済面は私が管理し、夫は収入も多かったので困ったことはなく、たまに夫がカードを使いすぎ、独身時代からの私の貯金から補塡し、「貸すからね」ということは何度かありました。
そんな1度目の山場があった5年後、中学受験真っ最中に、2度目の山が来ました。もう内容は忘れましたが女性関係です。でも1回目の山とは状況が変わり、私は子育てに夢中でしかも受験間近。「あ、また浮気してる」と、問い詰めはしたんですが、決定的な証拠がなく、また、いま事を起こすと受験に影響するので、夫が軽く謝ることで見過ごしてしまったんです。これがいけなかった。夫に対して、「ある程度許してくれる」という勘違いした安心感を与えることになって、浮気が進行してしまったのです。
3度目の山場は受験も一段落した娘が中学2年生の時に決定的な事件が起こりました。その前から怪しいことは何度かありました。私は子供の手が離れた頃から、大手保険会社のコールセンターでアルバイトをしていました。その職場の飲み会の日、夫に子供を託して、夕飯を作って出掛けました。帰るとすでに夫は寝ており、娘に「パパとご飯食べた?」って聞くと、「ママが出掛けて行ったらすぐに出掛けて、ママが帰る前に帰って来た」と。へーっと思ったけど、見過ごすことが身に付いてそのままに。そんな不審な出来事が何度かあったのです。
そして遂に、ある朝起きて冷蔵庫を開けたら、見たこともないタッパーが3つ積まれ、中にお惣菜らしきものが入っています。夫に聞くと「飲み屋のママが入れてくれた」と言うのですが、元夫は女性が付くお店には行かないし、そこにお金を落とさないことも知っていたので明らかに噓。ちょっと問い詰めると、「彼女が作って持たせてくれた」と認めました。
持ち帰る夫も夫だけど、持たせるってどういうこと、私への挑戦? そんな低レベルな争いに入りたくない、と自問自答している一瞬で、「大概にしてくれ」と張りつめた糸が切れました。あろうことか、「日本が一夫多妻制だったらなぁ」と呟いたので「顔も見たくないから出て行ってくれる? 娘には自分で説明してね」と言いました。夫は100%自分が悪いことを認め、娘に「パパがママを怒らせたので、実家に帰ります」と説明して、出て行きました。
もう心は決まりました。3度目はありません。でも娘が義務教育を終えるまでは籍を抜きたくなくて、1年間別居。その間、週末の昼間のみ帰ってきて、言い訳しましたが、決意は揺るぎません。娘に事情を話すと、「名字だけ変えたくない」と。もともと存在感のない父親で、娘も淡々としたものでした。夫は私がここまでするとは思っていなかったようでしたが、スムーズにリコカツは進み、慰謝料養育費含めてマンションを私がもらうことに。義弟が中に入り念書をかわしました。
元夫は、悪人ではなく良い人ではあります。だから何も揉めず、スムーズな離婚でした。両親は娘にしわ寄せが行くことを心配しましたが、住む家も変わらず、名字もそのままでダメージは少なかったですね。でも夫からの収入はなく、アルバイト料で暮らせるのか心配でしたが、それよりも肩の荷が下りてすっきりした方が大きかった。しかしその後、運よく社員になれて、娘と2人のびのびして気楽で楽しい生活。もう結婚はしないと思っていました。
その後娘は私の実家のある関西の大学の医学部に入学。私も実母の介護のため、マンションを処分し、会社も退社し、仕方なく関西に戻りました。久しぶりに親友の実家に遊びに行った時、そのお父さんに「どこか働ける会社を紹介してください」と言うと、「働くより、永久就職を考えたらどうだ」と言われ、冗談で「そうですね」と笑って帰宅したら、早速「いい人がいるから会ってみなさい」と連絡が。
とんとん拍子に事が進み、なんと翌週に2人でご飯を食べに行きました。6歳年上で経営者、子供はいないけれどバツイチのその人は、全然タイプじゃないけどとても優しい方でした。話も合って、2回3回と会ううちにお付き合いが始まり、出会って半年後にプロポーズされました。私は素直に「このままそうなればいいね」と応え、緩くその後も付き合って、結局1年後に再婚。離婚から7年後、48歳でした。娘は「いいんじゃない」とさっぱりしてます。子連れ再婚というより、娘は大学の近くに住んでいたので、たまに遊びに来る感じです。
最初の結婚は、不満があっても我慢して飲み込むことが多く、それで上手くいくならそれでいいやって、軽く考えていたのですが、その私の態度が相手に安心感を与え、認めてもらえていると勘違いされ、増長させてしまったと今になったら分かります。我慢していることが伝わってなかったんです。私にも原因はありました。声に出さないと伝わらないわけで、だから思ったことは言うようにしています。でも性格ですね、全部は言えてないですけど。要所要所は言えてるかな。
そして何よりも共通の趣味を持つって大事。今の夫は大のゴルフ好き。正直乗り気はしなかったけど、習いに行って、月1、2回は一緒にラウンドしています。
よく考えるんです。若い時に出会っていたら、夫の違うところを見て、結婚してなかったなと。お互いにね。年齢を重ね、痛みを経験したからこそ、分かり合える関係ってある。80歳になっても喜んで面倒を見られる夫婦でいられる自信がありますね。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2021年掲載時のものです。