“わが家”とは自分がいちばんほっとする居場所です。家族の思い出が詰まった住処であり、人によっては成功の証しでもある空間。それが突然、奪われてしまったら……。かけがえのない家を失ってきた女性たちは、その後、どのように立ち上がってきたのでしょうか。
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もし家族がバラバラなときに被災したら…普段から持っていた方がいいものって?
サヘル・ローズさん 38歳・東京都在住
俳優、タレント
私を助けてくれた人たちのために
私は生きている。それが私の原動力
私は生きている。それが私の原動力
イラン・イラク戦争によって家族と家を失ったサヘル・ローズさん。「当時、私はたぶん4歳。あの時代、多くの子どもに戸籍はなく、私も家族のことや自分のことが全くわかりませんでした。そんな私を孤児院から家庭へと迎え入れてくれたのは現在の母、フローラ。血の繫がりはないけれど彼女がいなかったら私は今、ここに存在していません」。
7歳で養女となったサヘルさん。翌’93 年、日本で働いていたフローラさんの夫を頼りに来日。故郷イランに別れを告げたのです。「当時は幼かったこともあり、故郷を失ったという感覚はありませんでした。それよりも何もない状態から引き取ってもらい、洋服やおもちゃ、そして自分だけを見つめてくれる母の〝瞳〟と出会えたこと。失うより〝得る〟という感覚のほうが強かったんです」。
しかし、サヘルさんが得た家族は想像していたものとは全く違うものでした。「来日後から始まった私に対する〝躾〟という名の義父からの虐待。その状況から助けるため、母は離婚を選択。真冬の晩に義父と話し合い、家を出たんです」。
再び家を失い、この日から母と子の公園での生活が始まりました。「この時、イランを離れる際に感じなかった『喪失感』を初めて強く感じました。大切な母が自分を引き取ったことで苦しんでいる。彼女の人生を奪ってしまっている自分の存在とは? なぜ私は生き延びたのか?」。
そんな喪失感と無力感にさいなまれるサヘルさんを救ってくれたのは〝人〟。自分の些細な変化に気づき、手を差し伸べてくれた大人たちだったのです。「ほとんど話せなかった日本語を私に教えてくれた小学校の校長先生。毎日お風呂に入れず身なりを整えられなかった時、『大丈夫?』と声を掛けてくれた給食のおばちゃん。彼女は衣食住から母の仕事のお世話、アパートの保証人にも名乗りを上げてくれたんです」。
約2週間の公園生活。大変なことも沢山あったけれど、多くの気づきもあったといいます。「どこに住むかではなく、誰と住むかが大切だということ。そして多くの人との出会いや、辛い時に手を差し伸べてくれる人の温かさ。現在の私の支援活動への向き合い方も、この時の経験が多く生かされています」。
そんなサヘルさんが支援する側として大切にしているのは、「忘れない」ということ。「人は誰かの瞳に映り、気にかけてもらえるから、苦しくても、もうひと踏ん張りしようとなれるんですよね。能登半島地震が新年早々にあった日本を始め、自然災害や紛争、戦争は世界のあらゆる場所で起こっています。最初は大きく報道され、人々の関心を集めますが、別の場所で何かが起こった途端、その前の出来事はなかったことのようになっていき、報道すらされなくなる。やはり忘れられることは被災された方たちにとって、不安であり悲しいことなんです」。
常に「自分にできること」を考えているサヘルさん。次に起こしたいアクションは、〝表現者〟
として、社会に問題提起をしていくこと。「直球で提起をすると、今の社会には受け止める余白がないと思います。でも、音楽や映画、演劇や本で訴えかけてみたらどうでしょうか。全員ではなくても、誰かがその中に込められたメッセージにきっと気づいてくれるはずです」。
幼少期の辛い経験は今も自身の根底に存在し、いろいろなことに対して敏感になってしまう自分がいるというサヘルさん。「私の心の中は、いくつものひびが入った状態。それは決して完全に修復されることはないけれど、辛い時期を支えてくれた人たちが、そのひびに一生懸命ガーゼを巻いてくれました。それがある限り、心が粉々になることはないんです。たくさんの人と出会い、助けられた私は、その人たちのために生きていくという感覚を持っています。人は皆、誰かに支えられ生きている。そして今度は、その人が成長した時にまた別の誰かを支えていく。私はその連鎖を信じています」。
1993年 虐待から逃れてホームレスに
撮影/BOCO 取材/上原亜希子 ヘア・メーク/深山健太郎 ※情報は2024年4月号掲載時のものです。