【前回まで】千葉から世田谷・駒沢に引っ越してきた美典は、小学校5年生になる娘の初めての保護者会で、4年生のときからのママ友の玲子、人気キャスター・エレナと顔を合わせ、同じクラスになったことを知る。帰り際に医者の妻ながら気さくな性格の玲子の誘いでお茶をすることになり、塾の話からシッターさんに盗難にあった話まで気取りなく話すエレナに心の距離が縮まり、次は自宅に遊びに行く約束をする。
【第四話】小5・5月
緑あふれる広い敷地の中には、小さな川が流れていた。駒沢オリンピック公園に隣接している駒沢ハレクラニは高級マンションがひしめくこの一角でも、芸能人や著名人が多く住んでいることからよく知られている。
「D棟ってここだわ」
引率するように少し先を歩いていた玲子が、美典を振り返りながら前方を指差す。玲子の真っ白なワンピースの裾が風でふわりと揺れた。
「広いから迷子になりそう」
美典は呟いて、D棟の中に入っていく玲子の後に続いた。
「1301よね」
玲子が自動ドアの前のパネルで部屋の番号を押して呼び出すと、「はーい」とエレナの声が出た。オートロックが解除され、美典と玲子は中に進んだ。
「玲子さんがいてくれてよかった。一人でこんな豪華な邸宅にお呼ばれなんて、心細すぎる」
「ほんと、美典さんって大袈裟なんだから。あら、一三階だから……ペントハウスだわ」
一階で止まっていたエレベーターに乗り込んだ玲子は、行き先階ボタンを押す時に言う。
「ペントハウスって、最上階にある特別仕様の部屋ってことよね?」
「こういう人気の物件のペントハウスって、なかなか空かないし、空いていたからと言って買えるものじゃないのよ。淡田さんだったら、どんなヴィンテージ物件でも手に入りそうだものね」
おもむろにエレベーターのドアが閉まったところで、美典はため息をついた。
「玲子さんとエレナさんって別世界の人よね。わたしなんかが仲良くしてもらっていいのかって不安になっちゃう」
「また、そんなこと言って。何が違うっていうのよ」
「何もかもよ……でも、遊んでもらえて嬉しいんだけど」
やだ、と玲子は美典の肩を叩いて笑う。
「美典さん、もっと自信を持ってもいいと思うわよ。色白で肌ツヤツヤだし、センスもいいし、わたしなんかが、って言っちゃもったいない。でもまあ、そういう美典さんが、かわいくて好きよ」
玲子のウィンクに合わせるように、チンッと軽やかな音とともにエレベーターのドアが開く。うっかり恋しちゃいそうだ。
「どっちかしらね」
玲子は左右を見る。部屋のドアは左右に一つずつしかない。すると、右のドアが開いて、こっちよ、とエレナが顔を出した。
「いらっしゃい。迷わなかった? この棟、奥まったところにあるから」
「エントランスのマップで確認したから大丈夫よ。ランチだけど、ちょっと飲みたいなと思って」
玲子はヴーヴ・クリコの黄色い紙袋を差し出して、中に入っていく。
「今日は呼んでいただいてありがとうございます。類くん、甘いのは好きかな。これ、シュークリームなんだけど」
美典も手土産を渡すと、嬉しいわ、とエレナは微笑んで受け取る。いつものコンサバティブなイメージと打って変わって、スキニージーンズにネイビーのサマーニットという装いだ。何を着ても様になる。
「どうぞ。散らかっているから、細かいところは見ないでね」
エレナはそう言ったが、通されたリビングは驚くほど広く、一見してモデルルームにやって来たのかと思うほどに整っていた。大きな食卓に、L字型のソファを置いても、まだスペースが余っている。カーテンが開け放たれ、その向こうに一つ部屋ができそうなほどのバルコニーがあり、その延長線上に瑞々しい緑の樹々が見えた。小さな富士山が見えるだけのうちの借景とは大違いだわ、と美典は思う。
「いらっしゃい」
後ろから低い声で呼びかけられ、振り返ると淡田哲次がいた。黒のTシャツにジーンズというのはテレビで見ているイメージのままだったが、意外と小柄だ。
「はじめまして。類くんの同級生の神取真翔の母です」
そつのない様子で玲子が挨拶をするので、「おじゃましております。小向沙優の母です」と、美典も慌ててお辞儀をした。
「神取玲子さんよ。類がお世話になっている皮膚科のクリニックの奥さまなの。こちらは小向美典さん。お嬢さんは、類と同じ啓セミに通われているわ」
「へえ、そうなんだ。淡田です。息子と妻がお世話になっています。エレナ、よかったな。近所の友達を作ったほうがいいって、彼女に言っていたんですよ」
「そうなんですか」
玲子が相槌を打った。
「僕自身が高知の海辺の村で育ったもので、両親は近所の人と垣根なく付き合っていたんです。そういうごちゃごちゃした環境のほうが子供にはいいだろうと思っていましてね」
「もう、あなたのことはいいから……ごめんなさいね、放っておくとずっと自分の話ばかりするんだから」
「はいはい、すみませんね。女子会の邪魔をしたらいけないな。今日は楽しんでいってください」
エレナにたしなめられて、淡田は苦笑まじりで奥に引っ込む。
「こんなこと言ったらあれだけど、淡田さん、テレビで見るよりも紳士な雰囲気ね」
玲子はぶっちゃけるように言うと、エレナは目を丸くしてから笑った。
「紳士かどうかわからないけど、テレビってその人の一部を切り抜いて見せているだけだから」
「やっぱりそういうものなのね」
テレビの中の世界など縁がない美典は、なるほどという思いで頷いた。
そんな話をしていると、玄関に続く廊下のほうで何かが動く。大きな犬だった。美典が思わず小さく叫ぶと、玲子もそちらを見て驚く。薄茶色の毛並みが美しいゴールデンレトリバー、その後からきれいな顔の少年が入って来た。
「うち、犬がいるのよ。お二人ともアレルギーは大丈夫かしら」
エレナはしゃがんで、こちらに来ようとする愛犬を撫でて自分のほうへ引き寄せた。
「わたしは大丈夫だけど、美典さんは?」
「全然、大丈夫。子供の頃に犬を飼っていたの」
「よかった。さくらって言います。類が名前をつけたのよね」
美典が、おいで、と手を差し出すと、さくらはふさふさとした尻尾を振ってやって来た。それを見て類もこちらに来て、一緒になってさくらを撫でる。
「類、ご挨拶してください」
母親に促され、「こんにちは」と類は小さく言って軽くお辞儀する。エレナに似て色が白くて顔が小さくて、目鼻立ちが整っていて、二次元から飛び出してきたような容姿だ。こういう子を貴公子と呼ぶのか。この空間に満ち溢れているものすべてが幸福そのものだと、美典は感じる。
淡田もいっしょに食事をするのかと思ったら、ではごゆっくり、と言って出かけていった。
「ほら、類もそろそろ準備して塾に行かなくちゃ」
母親に言われて、はーい、と類は素直にリビングを出ていく。
「そっか、ゴールデンウィークの講習ね。真翔も朝から行っているわ」
「鉄アカは朝からなんだ。沙優も、ちゃんと出かけたかな」
「沙優ちゃんは一人で出かけられるのね。さすが、しっかりしてるわ」
玲子にそう言われて、いやいや、と美典は首を横に振った。
「夫が家にいるのよ。とはいえ、あの人が忘れてそうだけど」
立ったままだったので、さあ座って、とエレナが美典と玲子を促す。
「子供が勉強しているうちに、母たちは休息をもらいましょう」
そう言って、エレナは手料理を並べていく。美典と玲子はダイニングチェアに腰掛け、二人して食卓に運ばれた料理に歓声を上げた。
「これ、全部作ったの?」
「あまり時間がなくてたいしたものを作れなくて」
これでも料理は得意だからと言っていたのは本当だったのか。
「ねえ、これってカスレ?」
玲子は大皿に盛られた煮込み料理を覗き込むようにし、湯気を嗅いで「おいしそう」と目を細めた。
「母方の祖母が南仏の人で、このカスレはおばあちゃん直伝のレシピなの。けっこう自信作だから召し上がってね」
サーモンのパテだとかヤリイカのフリットだとか、レストランでいただくようなものばかりだ。サラダにしてもクスクスが入っている。エレナが料理を出し終えたところで、玲子が持ってきたシャンパンをワイングラスに注いで乾杯した。広いバルコニーのほうから陽光が差し込み、食卓を輝かせる。深みのある泡が口の中で弾けて、最初の一口でほろ酔いの心地よさが美典の身体を巡った。
エレナの手料理がどれもおいしくて、玲子は素直に驚いた。同時に、やっぱりそういうものよ、と納得もした。天は二物を与えずというのは嘘なのだ。商社マンの父親とフランス人の母親を持ち、容姿と家庭環境に恵まれたエレナのような女性は、それを糧に自分磨きに励む。勉強やスポーツはもちろん、楽器の一つだって、きっとできるだろう。こうして料理も人並み以上に習得している。
そんなエレナとママ友になり、彼女の家に招かれている自分に満足して、玲子は心から楽しい。最初のシャンパンはすぐに空になり、二本目の白ワインが注がれていた。
「シャワーキャップを被ったままスーパーに行くなんて、自分でも呆れちゃった」
「そりゃ、みんなにジロジロ見られるわよね」
美典の最近のうっかり話を聞いて、玲子は手を叩いて笑う。
「二人はないでしょう、こんなバカなこと」
「ないわね、たしかに」
エレナも口に手を当てながらおかしそうに笑った。
「エレナさんがシャワーキャップしたまま買い物していたら、逆に最新のおしゃれ? ってみんな思うかも」
「そんなわけない、ない。類によく言われるのよ。ママはテレビと家での姿が違いすぎるって」
「類くんはエレナさんがママだから、目が肥えて、女性を見る目が厳しくなりそう」
玲子はカスレの白インゲン豆をフォークですくいながら、ねえ、と美典に同意を求めた。
「類くんはあんなにイケメンだし、この家のご子息だし、さらに頭までいいんだからモテて困っちゃうだろうね」
「本当よ。頭がいいといえば……類くんってやっぱり御三家狙い? それとも帝駒?」
玲子はさりげなく志望校に触れた。類のような優秀な子がどこを目指しているのかは、気になるところだ。うーん、とエレナはワイングラスを片手に首を傾げた。
「まだ全然決めていないわ。今年いっぱいはいろんな学校を見てくださいって、塾の先生にも言われているし。真翔くんはもう決めてるの?」
「うちもまったくよ」
玲子は淀みなくそう答えた。
「でも、ご主人がお医者さんだから、やっぱり子供たちにも同じ道をって気持ちがあるものなの?」
「どうかしらね。あたしはなんでもいいと思っているけど、夫と義父母はそういう気持ちがあるみたい」
「やっぱりそういうものなんだ。今どき誰でも、自分の道は自分で決められるものなのかと思ってた」
「真翔がこれっていう道を見つけたら、そこに向かっていけばいいって、あたしは思っているけど」
頭の中に保存しているテンプレートを読むように、玲子は話す。この手の話題になる時は、いつもそうしている。医師の息子ということで探りを入れられることが多いのだが、むやみに息子の進路について言わないようにしていた。
小学受験の時にも、どこを受けるのかは親しいママ友にも話さないほうがいいと幼児教室の先生に言われたものだ。それでも真翔が慶應義塾幼稚舎を受けるとママ友に知られていたことがあったから、玲子は用心している。
「クリニックのパネルにご経歴がのっているのを拝見したんだけど、翔一先生って、慶応のご出身よね。大学から?」
「ううん、幼稚舎」
「まあ、生え抜き。慶應の医学部に内部進学するのは、外部から入るよりも難しいっていうのに、翔一先生、本当に優秀でいらっしゃるのね」
「そうなの? 内部進学のほうが、医学部に入るのが難しいんだ?」
美典はエレナと玲子を見て訊く。
「一概に言い切れないとは思うけど、知り合いの慶應出身の医師がそんなことを言っていたわ。彼は外部から入ったんだけど、慶應の内部生という優秀な集団の中で、毎回の定期テストでトップ層を維持できた一握りが医学部に上がってくるから、内部生は相当優秀だったって」
「そんなに凄いんだ。だけど、そんな偉大なお父さんを持って、真翔くんは期待されて大変そう」
「えっ?」
玲子が聞き返すと、あっ、と美典は我に返ったように首を横に振った。
「ごめん! 悪い意味じゃなくて。真翔くんなら期待されても応えられるだけのものを持っているし、全然大変なんかじゃないよね。わたしったら、勝手に自分に置き換えて想像して、プレッシャーありそうって思っちゃって……そういうものと無縁に生きてきたわたしに何がわかるのって感じだわ」
「美典さん、そうなんだ?」
「期待をしてくれる人がいて、その期待に応えようと思えば応えられる、そういうことが許される環境にいるって、それだけで恵まれている。真翔くんも将来が楽しみね」
こうして一緒に飲んでいるけれど、美典のことは芸能人であるエレナのこと以上に、じつは知らないことに気づく。
「沙優ちゃんはどうなの? 憧れの学校があるの? 塾のクラスも上がったんだってね。類が、沙優ちゃんが隣の教室に移ったみたいだって教えてくれたわ」
エレナが美典のグラスに白ワインを注ぎ足しながら訊く。
「うちこそ、何一つ決めていないよ。成績のアップダウンがあって、どのあたりを目指していいのかわからないんだよね」
「それはうちも同じよ」
エレナは肩をすくめる。
「真翔なんて、小一から鉄アカに通っているのに、受験生の自覚が薄いように思う。目を離したらゲームかスマホだし」
玲子もため息混じりに言った。
「親からすればもう五年生って思うのに、本人にしてみれば、まだ五年生ってもんなんでしょうね。局アナ時代の先輩のお子さんも中受した時に、小五の頃がいちばん大変だったって言ってたの。今になって、その言葉が蘇るわ」
「五年生ははじまったばかりなのにね」
「まだ五月なのか」
美典は苦笑した。
「だから、いまのうちに学校見学しないと。鉄アカの先生が、男子は親が志望校をある程度決めても大丈夫だけど、女子は基本的には自分で決めさせたほうがいいって言ってたわよ」
「制服はもちろん、どんな校舎なのか、図書館は広いか、カフェテリアがあるか、女の子は細かく見て決めることが多いみたい。文化祭や体育祭で見学できる学校がほとんどだから、沙優ちゃんと行ってみたら?」
玲子とエレナに言われ、そっか、と美典は頷いた。
「実際に学校を見学したら、士気が高まりそうね。お二人はどこを見学した?」
「去年、御三家の文化祭には行ったわ。あと、帝駒も」
エレナは言う。
「帝都駒場って、男子の最難関でしょう」
美典は目を丸くすると、見学は誰でもできるのよ、とエレナは笑った。
「玲子さんはもういろいろ見てそう。附属校狙い? それとも進学校? やっぱり翔一先生の母校、慶應に惹かれるのかしら」
「えっ? どうかな……あっ、お水のおかわりもらえる?」
「あら、ごめんね、気づかなくて」
玲子は曖昧に笑いながら、エレナの鋭さに内心焦る。キャスターを務めているだけに、話を引き出すのが上手い。うっかりしていると本音を言ってしまいそうだ。酔いを覚ますように、玲子はエレナが注いでくれたお水を飲んだ。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年6月号掲載時のものです。