【前回まで】4月以来、久しぶりに目にする娘・沙優の実力判定テストの結果に心がザワつく美典。前回は四教科の偏差値が60を超え舞い上がったにもかかわらず、今回は55を切る数字。憂鬱な心のままにLINEでママ友の玲子とエレナに相談すると、「ドンマイ!」と励まされる。一方、エレナは偏差値65を超える息子・類のテスト結果を目にして悦に入り、その気持ちをXでつぶやくが、リプライで上には上がいることを知り……。
【第六話】 小5・7月
梅雨が明けると三十度を超える日が増えて、土曜の午後、美典は先延ばしにしていた娘の衣替えに取りかかった。沙優が塾に行っていると、何かと捗る。家にいられると、勉強は進んでいるのか、動画を観る時間が長すぎないか、などと気になってしまい、自分のやるべきことに集中できない。
「ほんと、塾ってありがたいわ」
独りごとを言いながら、美典はしばらく着ない長袖のものや長ズボンを収納ボックスにしまい、半袖やタンクトップ、ハーフパンツや生地の薄いスカートをクローゼットに移す。着るには小さいものがけっこうあり、それはリサイクルショップに持っていくために紙袋に詰めながら、たった一年でずいぶんと大きくなったのだと実感する。
女子は初潮を迎える前に身長が伸びやすいという。沙優の親友の李璃子のお母さんと話す機会があり、李璃子が小四からスポーツブラをしていると聞いて、ネットで良さそうなものを探して注文したのが先週のことだ。美典がはじめてスポーツブラを買ったのはもっと後だったし、沙優も無頓着なほうだからうっかりしていた。
新しい服はフリマアプリでチェックしてみよう。子供の成長は素直にうれしいものの、出費は抑えたい。五年生になって塾代も高くなったし、六年生になればもっとかかると聞いている。パートのシフトも増やしてもらおうかな……と考えながらスマホを手に取ってみたら、数分で十八時になるところだった。
もうこんな時間! 美典はテレビのリモコンを見つけ出して電源を入れ、日の出テレビのチャンネルにする。間に合ったようでCMだった。
しばらくすると『あの人のオフタイム』というタイトルが出てから、淡田哲次の横顔のアップが映し出された。カメラは引きになり、車の後部座席で誰かと電話で話しているところだとわかる。テロップに『淡田哲次 54歳 実業家』。 普段はこの時間にテレビを観ることがないが、この番組は長く続いているので何度か観たことがある。毎週土曜日十八時から、歌手にアスリート、芸術家、起業家……ジャンルにこだわらず活躍している人のオフの姿を紹介するものだ。今日放送されることはエレナから教えてもらっていて、楽しみにしていた。エレナの話によると、淡田は半年ほど密着取材されていたようだ。
若く見えるけど、五十四なんだ。美典はエレナの家で挨拶した淡田の姿を思い出す。Tシャツにジーンズといったラフな服装の効果もあるが、やりたいことをやれて、その結果や評価も受け取れている人というのは若々しくいられるのだろう。淡田哲次がCEOを務める『アップユーエージェント』が、ビルの管理などの不動産業をやっている会社であることは、そのCMがテレビでもよく流れているので知っていたが、それ以上のことはあまり知らなかった。いまは音楽や映像の配信事業などもしていて、新しく宇宙事業もはじめるなど手広くやっていることや、昨年の日本の起業家ランキングで五位だったことなど、思っていた以上にスケールの大きな経営者であるのだと知り、美典は一人で感嘆しながら観ていた。
タクシーから降りた淡田が自宅のドアを開ける姿が映され、リビングに入ったところでエレナが登場。ボリュームのあるスリーブのシャツのフロント部分だけ黒いパンツに入れ込んだエレナの足元に、愛犬のさくらが擦り寄ってくる。自分がいたことのある場所がテレビに映っている。信じられないわ。
淡田の息抜きは料理のようで、スパイスカレーを作りながら、エレナについて語る。
『この人ね、ポーッとしているんですよ。ニュースを読んだりしているから賢そうに見えるでしょう? 案外抜けてるんですよ、そこがいいの』と淡田。『ちょっと失礼ね』と笑いながら返すエレナ。『そう? キャスターを務めるような人って、隙がないように思われてそうじゃないの。そうでもないよって言いたいわけ、俺は。君のそういうところが一番の魅力だと思っているからさ……あっ、いい感じに整ったな。これ、みなさん、ちゃんと食べてくださいよ』
カレーを味見した淡田は、カメラの外側にいるスタッフたちを和ませるようにそう言う。
「ああ、完璧かよ」
「何が完璧なんだよ?」
いきなり後ろから声をかけられ、美典はビクッとする。仕事部屋にこもっていた洸平が、いつのまにかリビングにいた。
「もう、急に声かけないでよ」
「いいじゃん別に。何観てんの?」
「『あの人のオフタイム』っていうの。前に話したよね、尾藤エレナさんがママ友だって。旦那さまの淡田哲次さんと一緒に出ているの。淡田さん、奥さんの魅力を語りながらスパイスカレー作ってるんだよ。完璧すぎない?」
「カメラの前だから作ってるに決まってんじゃん」
そう言う夫を見ると、グローブを左手につけている。
「なんでグローブ?」
「磨いたんだ。ひさしぶりの試合だからな」
夫はボールを投げるように腕を振ってみせた。
「試合? いつ?」
「これから」
ゲーム事業などを展開しているIT企業でシステムエンジニアをしている洸平は、同じ業界の野球好きが集まった草野球のチームに所属している。ゆるくやっているようで、毎試合に出なくてもいいと言うが、月に一度は週末の夜にグラウンドに向かう。それは美典も構わないのだが、予定を聞かされていないのは困る。
「これから? じゃあ、夕飯は?」
「いらない。ゲームの後に飲み会があるし」
「グーグルカレンダーに書いてある? 洸平のぶんの冷やし中華も用意したのに」
「悪りぃ、書き忘れたかも。明日の朝に食うよ」
「野球だって知っていたら作らなかったのに」
「うっかりだよ」
「わたしが夜に出かける時には必ずあなたがいるか訊くよね? なのに、あなたって、たまに土日に出かける予定を勝手に入れるでしょう。わたしが家にいると思っているからだよね? 不公平」
「ごめん、ほんとごめんなさい」
その場しのぎに謝って、夫は逃げるようにリビングを出ていった。もう、とため息をついてテレビのほうに顔を向けると、淡田は真剣な表情で話している。妻の魅力を語りながらスパイスカレーを作ってくれなくてもいいから、数少ない約束くらい守ってほしい。それさえも軽んじられると、わたし自身までもがいい加減に扱われているように思えてしまう。
—
エレナが着ているシャツはたぶん「カオス」だろう。試着をしたらなで肩の自分には似合わなくて買わなかったが、さすがエレナはきれいに着こなしていた。
それにしても淡田哲次って、ルックスの割に言うことがいちいちイケメンだわ。尾藤エレナという妻を上から目線で褒めるなんて、何十億と稼ぐ男だから許されるのよね。柘榴ジュースを飲みつつテレビを観ながら、玲子はそんなことを思っていた。
ガレージのシャッターの上がる音がかすかに聞こえて、夫と息子が帰ってきたのだとわかる。案の定、玄関ドアが開いてリビングに真翔が入ってきた。
「おかえりなさい。どうだった」
「ねえねえ、お母さん、これ無料なんだけど入れてもいい?」
どうだったの質問を無視して、真翔は嬉々とした表情で玲子に自分のスマホを見せる。何それ、と訊くと、パズルゲームと言う。
「まだそんなことを言ってるの? 受験生でしょう? いまの成績で、遊んでいる余裕なんて……」
「はいはい、もういい」
「そうだ、次の月間テストで四教科60を超えたら、それを入れてもいいわよ」
「60? 無理ゲー」
「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう。慶應は鉄アカ偏差値で60なのよ」
「だるー」
そう言いながら、真翔はキッチンの横の階段を上がっていく。
「だるーじゃなくて、ちょっと、真翔」
玲子は呼びかけたが返事はない。リビングに入ってきた翔一を、おつかれさま、と玲子は迎える。個別教室に行っている真翔を、いつもは玲子が迎えに行くのだが、今日は翔一に頼んだのだった。
これまで子供関係について、金銭面以外のことを、玲子がほとんどすべて対応してきたのは、母親として妻として嫁としての矜持だったが、ここ最近になって、夫を真翔の受験に巻き込んだほうがいいのかもしれないと考えるようになった。真翔の成績は少し上がったもののなかなか軌道に乗らない。東京で生まれ育ち、小学校受験で慶應に入った夫に頼ったほうがいいのではないかと考えた。
「あなた、個別の先生とは話ができた?」
真翔の成績や勉強の様子について先生に訊いてきてほしいと頼んだので、そうたずねると、まあ、と翔一は頷く。
「あいつさ、やる気あるのかな?」
ソファに座って、翔一はこちらを見る。
「えっ、どうして?」
「毎回、漢字の小テストをしてくれているみたいなんだよ、慶應って漢字がよく出るから。で、今日は二十問中十四点だった。毎回、そんなもんだって」
「まあ、そうかも」
「漢字なんて、覚えればいいだけ。三分くらい確認すれば覚えられたもんだ。俺は三分くらいやって満点をとれた」
「あなたはそうかもしれないけど」
「塾に十八クラスあるうちの九番目のクラスなんだってな。ちょっと前はもっと下だったけど、前回のテストで上がったって、自分の手柄だと言いたげに講師が教えてくれたけど、小一から塾に通っているんだろう。それで真ん中をうろうろしているって、どうなんだ」
「鉄アカは優秀な子たちばかりなの。たしかにあなたみたいに、三分くらいパラパラッと確認するだけで記憶できる子じゃないけど、あの子なりに頑張っているのよ。ただ伸び悩んでいて……あなたがサポートしてあげたら」
「塾と個別に行って、さらに何をサポートする? つまり何が言いたいかというと、何浪の末に医学部に入ったはいいけど、ついていけずに挫折するやつがたくさんいる。身の丈っていうのがあるってことだ」
「どうしてそんなに残酷なことが言えるの」
「身の丈に合わないことを要求して無理させるほうがよほど残酷だ。うちの親は二言目には慶應って言っているけど、俺はそんなことない」
「あなたはそれでよくても……」
「無理だとわかれば、しょうがないって諦めるさ。じゃ、俺は出かけるから」
言いたいことは言ったとばかりに、翔一は玲子の肩を軽く叩くと、気分を切り替えたように立ち上がった。
「今日は誰と飲むんだっけ」
「高原と」
「また?」
「あいつ、いろいろ悩んでいるみたいで。あっ、ガソリン入れといたから」
そう言って、翔一はすたすたとリビングを出ていく。その後ろ姿を見ながら、そうだった、と玲子は思い出した。真翔と莉愛がまだ小さかった頃、夫にも育児に参加してほしいと望んでいたことを。そして、望んでいるほどの協力を得られなかったことを。忙しさを理由に家庭にあまり時間を割くことはなかった。出先で抱っこ紐を渡してみても柄じゃないと拒まれた。母として妻として嫁としての矜持だと思い込んでいたが、その前に、玲子は諦めたのだった。たしかに国宝級に優秀な人で、正しくもある。だけど、寄り添ってくれたことがない。わたしは、そういう人と結婚した。
「ママ、宿題終わったよ。お腹減っちゃった」
二階にいた莉愛がリビングに入ってくる。
「そうだね、もうこんな時間」
前を向くと、テレビの中でエレナと淡田がおかしそうに笑っていて、玲子はリモコンで電源を消す。ないものを思って嘆くほど、あたしはもう幼くない。さてと、漢字を覚えられるアプリがあるかしら、と玲子は考えながらキッチンへ向かう。
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番組の放送を観終えて、エレナはXを開いた。『淡田哲次』『淡田社長』で最新のポストから見ていく。
『淡田哲次って、アンチもけっこういるみたいだけどブレない信念が感じられた #あの人のオフタイム』『家に帰ったら尾藤エレナがいるって、どんな世界を生きているんだよ、淡田社長』『あの人のオフタイム、淡田哲次の男気にしびれまくり』
おおむね好意的な感想が多いようで、エレナはホッとする。そこにマネージャーの吉野からも『うんうん、いいご夫婦でした!』という簡潔なメッセージが届く。最後にハート付きのニコニコした絵文字が付いていた。
淡田は夜に会食があって在宅していないので、リアルタイムで番組を確認したのかどうかはわからないが、事前に放送内容はチェックしたと言っていた。なかなか上手にまとめていたよ、とエレナに言っていたとおり、土曜の夕方につけっぱなしのテレビで流し観るのにちょうどいいだろう。淡田哲次の好感度も多少上がったのではないか。客観的にそう思いながら、エレナは内心で苛立っていた。夫にうまいこと使われたように思えてならない。エレナがいないところで、エレナのことを褒めていたところがあざといと思う。
『彼女は感受性の目盛りが細かくて、傷つきやすいんだけど、それを見せないくらいに強くて賢いでしょう。僕にはもったいないくらいの妻で、息子にとっては最高にいい母親でいてくれることに感謝しかないから、僕はね、彼女にとって気を抜ける存在でありたいって思っているんだよね』
淡田は番組がどういう言葉やシーンをほしがっているのかよくわかっていて、それに応えたのだ。あざといと思う視聴者は多くないだろう。ただ、尾藤エレナは夫のそんな言葉を聞いて喜んでいると思われたくない。だけどいっぽうで、夫の優しさにうっとりする妻というイメージは必要だとも思う。くだらない葛藤だけど、こういう相反する気持ちのぶつかり合いがエレナの中に絶え間なくあった。
メッセージが届いて、スマホが短く震えた。美典と玲子のグループラインで、美典からだった。
[美典]
『あの人のオフタイム』見たよ! 淡田さんが素敵なのはわかっていたつもりだけど、改めて器の大きい人なんだなって感動しちゃった。エレナさんと淡田さん、パーフェクトカップル! それにテレビに映っているあの素敵な空間に自分がいたことがあるなんて、ほんと信じられない〜。
屈託のない美典の感想を読んで、エレナは神経質になっていた気持ちが緩んだ。するとまもなく、玲子からもメッセージが届く。
[神取玲子]
本当にパーフェクトカップル、見せつけられたわ。ところでエレナさんが着ていたシャツって「カオス」よね? ああやって着こなすのねって、内容と関係ないところでも感心しちゃった。
アナウンサーになりたての頃には自分が出る番組の告知を家族や友人にしたものだったが、慣れてくるうちに、そんなこともしなくなった。美典と玲子に、放送される日時と番組名を書いて、よかったら観てね、とメッセージを送ったことが、自分でもちょっとした驚きだった。
[ERENA]
お忙しいのに、二人ともリアタイしてくれたの、とっても嬉しい。夫婦で撮ってもらうことなんてあまりないからいい記念になったわ。ところで夏休みのご予定はもう埋まっている? もしスケジュールが合えば、伊豆にある別荘に家族で遊びに来ない?
メッセージを送ってスマホをテーブルに置いたが、即座に短い着信が二度続く。ちらっと見ると、メッセージのどちらにも赤いハートマークが付いていた。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年8月号掲載時のものです。