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STORY4月号・私たちのチャレンジ・ストーリィ「読者の証言全文掲載」

Voyager40 今までもこれからも、誰もが“福島”の当事者です

STORYは、東日本大震災が発生した月に発売される
4月号の「連載 私たちのチャレンジ・ストーリィ」で、
震災をテーマに取り上げるのが恒例です。
今年は福島にスポットライトを当て、震災から丸6年経つ
原発、放射能、避難、賠償などの現状、問題点についてお伝えしています。
弁護士の河合弘之先生、ジャーナリストの吉田千亜さん、
そしてフリーアナウンサーの山本モナさんの鼎談に加え、
福島で被災した読者の方々のメッセージを掲載させていただいています。
紙幅の関係上、誌面では掲載できなかった分も併せて、
このブログでは読者の方々の今の暮らし、思いを
全文掲載させていただきます。

そして、鼎談にご協力いただいた河合弘之先生が監督された映画、
『日本と再生 光と風のギガワット作戦』が
3月10日(金)まで渋谷・ユーロスペースにて公開中です。
自然再生エネルギーの今とこれからがわかりやすく解説されています。
是非、足を運んでみてください。
http://www.nihontogenpatsu.com/

大熊町の牛舎にて。写真を撮っているのはフォトジャーナリストのShino Yanagawaさん。

今でも終わりが見えない風評被害。
加害者の国と東電には「仕方がない」と思ってほしくない
――樅山智美さん(サロンオーナー・38歳)

あの日を境にいろいろなことが変わりました。私の主人も実家も、福島で果樹農家を営んでいます。風評被害は今も感じるし、終わりは見えません。
放射能汚染が世間を騒がせるようになって以来、福島の人ですら「現地の農作物を食べていいのかわからない……」という雰囲気になりました。不安に思っても、家族の手前、同居している88歳の祖母が丹精込めて育てた野菜を子ども達が口にするのを「食べちゃダメ!」とは言えませんでした。主人の果樹園の売上も半分くらいに減ってしまったのはわかってはいたけれど、夫婦で敢えてそれを口にはできませんでしたね。
原発事故後の選挙で、福島のいくつかの大きな市で市長が代わりました。福島市もそうでした。東京で仕事をしていたにもかかわらず停滞していた地元・福島のために帰郷し、「命を懸けて僕が福島を僕が変えていきます!」と演説していた立候補者の言葉が胸を打ちました。政治に興味がなかった私も子ども達と一緒に応援しました。そして「福島を変えていくために、声を上げていかないといけない」と思うようになりました。でも福島の人って優しい? 諦め? 前向き?なのか、みんながそれぞれの理由で怒りを心の中にしまって頑張っている気がします。
震災の年に入学した我が子も小学6年生。昨年、震災後初めて午前午後フルで運動会ができました。校庭の放射量の問題で、運動会中止に始まって毎年数時間ずつ延び、午前中開催になり、今年はお弁当の時間ができるまでになって感動しました。そんなことがいかに幸せか、当たり前に過ごせる有難さを感じています。
最近では風評被害で売り上げの減った農家に対し賠償金を出し渋ったり、支払いを先延ばしにされることもあるようです。その賠償金もここ1、2年で打ち切られるかもしれません。もちろん農家の人たちも「前向きに自分たちで頑張っていこう!」と新しいことに取り組んでいる方も大勢います。けれど、福島の農産物の風評被害は終わらない、終わりが見えないんです。私達は決して+αなんて求めていません。賠償金とは風評被害によって落ち込んだ収入の補償。私達は「仕方がない」と思っても、加害者側の東京電力や国には決してそう思って欲しくありません。

浪江町にある請戸小学校。津波による甚大な爪痕が残る。

せめて子どもが学校を卒業するまであと1年、
ここに住まわせてもらえませんか?

――山田陽子さん(仮名・パート勤務・44歳)

‘11年3月14日、3号機の建屋が爆発。自宅は20km圏外でしたが、自衛隊員から各家に対して、すぐに避難するよう指示があったため、福島市に一旦避難。その後、夫を福島に残し、子ども達と東京の借り上げ住宅に避難しました。当時は学校でのいじめがあったようですが、「悪いことをして逃げてきたわけではないんだから堂々としていなさい」と言い聞かせ、手を引っ張って登校させたこともありました。ここに来て6年、地域に受け入れてもらい、子ども達にも友達がたくさんできて、ようやく普通に生活できるようになっていました。ところが、今年4月からの自主避難者の住宅支援の打ち切りが決まりました。3月中に家を出なければならないというんです。一度は福島の自宅に帰ることも考えました。除染後の敷地は平均すると0.5マイクロシーベルトでしたが、線量が高い場所は5.4マイクロシーベルトもあり、数値が高いところだけ再除染してもらいたいと行政に掛け合いましたがダメでした。さらに、子ども達のうち2人が甲状腺検査で今年初めて嚢胞が多数見つかったんです。こんな状況で家に帰れますか? 幸い転校せずに通える公営住宅に優先入居できることになったのですが、「福島というだけで優先されていいわね」とか「お金があるからたくさん働かなくてよくていいご身分」といった嫌みが聞こえてきました。大人のいじめですよね。今になって、引っ越したころ、子ども達はどんなに辛かっただろうと思い知りました。子ども達は「また引っ越す」と学校で言ったところ、ちょうど福島の避難者へのいじめの報道があったときでもあり、「え? お前、福島だったの?」と友達に言われショックを受けて帰ってきました。引っ越しが引き金で、子ども達に何か起こらないとも限りません。中には多額の賠償金をもらっている人もいますが、みんながそうではありません。うちは賠償金が出たのは1年だけで、家財を一切持たずに家を出たので生活準備に全て消えてしまいました。そんなことは周囲の人は知りません。それに公営住宅に住む要件には収入の上限があるので、もっと働きたくても働けないんです。元々、「避難しろ」と言われて出てきたのに、これって自主避難なんでしょうか? 行政はあまりに子どもに冷たいと感じます。子どもを守るという視点で、もう少し柔軟な支援をしてくれてもいいのではないでしょうか?
子ども達が卒業するまであと1年だけ、有償でもここにいさせてほしいと行政に申し出た結果、ようやく1月に個別面談が叶い、あと2年、有償で住み続けられる方向で調整が始まりました。賃料は高く大変ですが、支援してくれた方々のお陰だと感謝しています。でもこれで「解決、終了」というわけでは決してないんですよね。

津波による被害で今も更地が広がる浪江町・請戸地区。

わざわざ理由など聞かれません。
家を購入した瞬間に避難終了とみなされます

――林 花緒里さん(仮名・主婦・43歳)

避難指示の境界線は、福島第一原発から半径20km。半径19kmの場所にある実家は避難を余儀なくされ、住んでいた兄達は我が家に退避しました。その我が家は半径21kmでぎりぎり屋内退避区域。いやいや、目の前でアウトって言われているのに、ここがセーフなわけがない。「逃げよう逃げよう」。すぐそこにある見えない危険が怖くて、福島から離れることにしました。もちろんちょっとした2泊3日の旅行気分で……。
当時、主人が仕事で借りていた6畳1間のアパートが埼玉県にあったので、そこにしばらくいた後は借り上げ住宅に引っ越し、今は購入した中古住宅で生活しています。家を買った理由なんて話す機会もないし、誰にも話したことはありません。きっと「お金に余裕があるのだろう」と見られていたと思います。でも本当は……いたずらされて借り上げのアパートに住み続けるのは危ないと思ったから。子どもたちの命と、家を買って苦労するのとどっちを取るか? 答えは考えるまでもありませんでした。
私達避難者は何か手続きをする際に「借り上げですか? 借り上げじゃないですか?」と質問されます。これが何を意味するかというと、「借り上げに住んでいたら避難者だから支援する、借り上げではなかったら避難者ではないので支援しない」ということです。用意された場所から抜けた私たちはすでに避難終了ということなんですよね。もともと自主避難というくくりの私達には、あまり賠償金はありません。それに加えて、こちらでは何をするにもお金がかかるので生活するのが本当に大変! 福島だったら田んぼの畔道に置けた自転車だって、こっちでは駐輪場代がかかる、駐車場代も時間でどんどん加算していくのでスーパーのレジが混んでいるとイライラしちゃったりもします(笑)。それにうちは農家だったので、野菜は買ったことがないんです。「37歳で初めてねぎ買いました」みたいな(笑)。でもとにかくやるしかないんです。大袈裟じゃなく、生きていくしかないから。
避難してきたことに後悔はありません。ただ子どもたちを連れてきてしまったことに対してどこか罪悪感というか後ろめたさがあるのは事実です。だから何かにつけて聞いてしまう。「こっちに来てよかった?」。子どもたちは決まってこう答えます。「うん! こっちは遊ぶ場所もたくさんあるしね。でも……福島は福島でいいよね」。家族みんな、心の奥にはやっぱり福島があるんです。

次ページへ続きます。

 
除染作業中の富岡町のJR夜の森駅付近にて。

「自主避難者への住宅無償提供打ち切り」。
原発事故は人災です。私たちはただ幸せに暮らしたいだけなんです。

――鈴木直子さん(主婦・43歳)
 
避難するまでの5日間、考えていたことは「子どもの命をどうすれば守れるか」それだけでした。SNSを見ると、溢れているのは「危ない! 逃げろ」の文字。でもテレビをつけると聞こえてくるのは「大丈夫」という言葉。どれが本当かわからないけど、リスクがあるなら逃げたほうがいい。「考えすぎだよ」って笑われもしたけれど、それでも避難しようと思ったのは放射能と差別や偏見が怖かったからです。将来、娘達が好きな人と結婚しようと思ったとき、この震災の放射能が原因で上手くいかないことがあったら……と考えたら、とにかく「避難した」という既成事実を作りたかった。後で「考えすぎだったね」って笑えるなら、それでいいのだから。
少し前、避難している子どもへのいじめが取り上げられましたが、実際に子どもの間で「将来、子どもを産めるの?」とか「〇〇ちゃんは福島から来たから仲良くしちゃダメってお父さんが言ってたけれど本当なの?」といった心ない言葉が飛び交っているという話は聞いたことがあります。でも辛い思いをしているのは子どもだけじゃない、大人だって辛い思いをたくさんしてきました。いわきナンバーの車に乗っていると、「福島から来たの?」と必ず聞かれました。もしかしたら他意はないのかもしれない。でも私は「そうなんですよ。でも賠償金はもらっていなくて。放射能が怖かったから来ました」と答えてしまう。聞かれてもないのになぜここまで言ってしまうのか……。それは賠償金をもらう=世の中から妬まれるように感じるからなのだと思います。生活を奪われたのだから正当な賠償金なはずのに……。世間からの無理解に悩み、本当は生活が大変で肩身の狭い思いもし、さらにこの春、打ち切られた自主避難者への住宅無償提供。これって避難者への人権侵害、大人へのいじめなのではないかとさえ思えてきます。
福島にはずっと住むつもりで家を買っていました。だからどこかに引っ越すなんて夢にも思わなかったし、余裕があって笑っているわけではないんです。それでも頑張って働いて何とかしようともがいて、子どもに笑ってほしいから親は笑う。避難には葛藤だってたくさんあったし、故郷から逃げた人間という罪悪感は今でも消えません。でもこの笑顔は6年の間に頑張って勝ち得たものなんだということを誰かにわかってほしい。そして私を含めて皆、自分たちが選択した道に共感し、肯定してほしいのかもしれません。

取り壊されたJR富岡駅周辺はフレコンバッグ置き場に。富岡町には117万3,318個のフレコンバッグがある(1月31日現在。「除染サイト」より)

語り続ける被災者の言葉や教訓に耳を傾けてほしい。
これは決して他人事ではないのだから

――N・Mさん(主婦・43歳)

13歳のとき、横浜から父親の実家のある福島県双葉郡富岡町に引っ越してきました。1986年、忘れもしないチェルノブイリ原発事故のあった年です。連日の事故報道で、自分自身が“原発の街”に引っ越すことに対して、とても怖かったことを覚えています。
私が住んでいた富岡町は福島第一原発のある大熊町の南側にあります。原発から半径20km圏内にすっぽりと入っているので、震災以降は全町民が避難しました。その後新たな線引きがされ、放射線量に応じて帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に再編されました。私が住んでいた場所は帰還困難区域に指定されたため、震災後さまざまな土地を転々とし、最終的には’11年9月から単身者でも借り上げることができる兵庫県の住宅に落ち着くことができましたが、その小さな町の中だけでも多種多様な避難の理由や形、状況がありました。
新しい土地で生活をしながら耳にする原発関連の報道。特にいちばん心を痛めるのは、震災の二次災害で亡くなった人や悲しい思いをしている人を知ったときです。中でも昨年報道されたいじめ問題。大人の何気ないひと言から子どもが間違った知識を持ってしまうケースもあるように感じます。賠償金の意味や、「何のためにもらっているのか?」を私達も含めてきちんと理解しないといけないんですよね。
今年に入り、政府は福島第一原発事故によって全町避難が続く富岡町の避難指示解除についての住民説明会を開きました。4月1日、帰還困難区域を除く富岡町の避難指示解除を協議中とのこと。私には賠償金の支払いは来年3月までで以降は未定。同時に災害公営住宅への入居可能というお知らせが。福島県は、避難者向けに帰還の判断材料となる情報をまとめた「帰還支援アプリ」を開発するなど、帰還を促す動き活発化していますが、核のゴミ袋、フレコンバッグは町の至るところに山積み状態、廃炉作業への不安や、宅地周辺の森林の線量は未だに高い状況です。6年前に突然、住む場所を失い、故郷を失い、やっと新しい土地での生活を初めて慣れてきたところで、安全確保が明確でない場所に住宅を用意し帰還を推進するやり方に、私は到底帰る気持ちにはなれません。
今回は私達がたまたま被災者になったけれど、54基の原発を抱える日本のどこでも、同じことが起きる可能性がある。それは今こうして語っている私と同じ境遇になるかもしれないということです。被災者や避難者が発する言葉や体験、教訓に他人事としてではなく耳を傾けて欲しい、そのためにも私達、被災者にできることは「語っていくこと」なのかもしれません。

 

飯舘村にて。お地蔵さんの頭をなでると村歌が流れる。

避難当事者としての視点から、
今起きている“事実”を伝え続けたい

――森松明希子(原発賠償関西訴訟原告団代表・東日本大震災避難者の会Thanks&Dream代表・43歳)

‘11年のゴールデンウィークに、出身地の関西へ親戚を頼って一時避難した際、福島を客観的に見ることができました。テレビでは福島第一原発事故の深刻度を示す国際原子力事象評価尺度が最も深刻度が高いレベル7、事故後20年以上が経過しても健康被害が絶えないというチェルノブイリと同じということでした。当時、福島県内で報道されることといえば、どこの学校で授業が再開された、流通が元に戻ってきたなど、復興に関するものが圧倒的に多かった中で「外から見た福島の真実」に衝撃を受けました。私はすぐに郡山にいる主人に連絡し、避難したいと伝えました。その日から私と当時3歳の長男と0歳の長女との「母子避難生活」が始まりました。
仕事の都合で郡山に残る夫と大阪に避難した私と子ども達の二重生活は精神的な負担だけでなく、家賃も光熱費も2軒分。夫が子ども達に会いに来る交通費も馬鹿になりません。郡山市は国が指定する避難指示区域ではないので「自主避難」とされ、避難費用や生活に関わる費用は補償されません。もちろん経済面だけではありません。福島県は事故当時県内に住んでいた子どもに対して、県民健康調査として甲状腺の健康調査を2年に1度実施しています。いつ健康被害が発症するかは誰にもわかりませんし、実際6年経った現在も小児甲状腺がんの子ども達が増え続けています。直後にどれほどの被曝影響を受けたか分からないですし、実際にいちばん放射線量の高い時期に福島で過ごしていたことは紛れもない事実ですので、子ども達に健康被害が生じないという保証はどこにもありませんので私は住民票を移していません。しかし、住民票を大阪に移していないことで行政サービスを受けられず困ることが多々あります。私が大阪で働き始めた際、住民票がないという理由で保育所の入所手続きができなかったことがありました。郡山と大阪の市役所に掛け合っても「できません」の一点張り。「広域入所」という制度を自分で調べ、やっと手続きができました。長男が小学校に入学するときも同様のことが起こりました。
今年、震災以来、初めて年末年始を福島の自宅で過ごすことができました。久しぶりの我が家に到着した私の目に最初に飛び込んできたのは、核のゴミ袋詰め“フレコンバッグ”が挑戦的に鎮座する光景でした。子ども育てる親として、小児甲状腺がんの多発は素人目に見ても原発事故の影響によるとしか思えない今、新1年生になる我が子に大量のフレコンバッグのすぐ横を通って毎日学校に通わせようとは、どうしても思えませんでした。3.11以降毎日「今日も避難を続ける」という決断の日々……。まだ言っているの? いつまで避難って言い続けるの? もう移住だよね? 家族で引っ越したら? 自分自身さまざまな“声”と、あの日から1日も休まず向き合っています。
「避難」は「保養」の最たるもの、と私は思っています。「母子避難」という選択は、国の保護も救済も何ひとつ制度として確立していない中で最大限の被曝防護策であり、放射線被曝から免れ健康を守るという権利をひたすら実践しているだけなのです。今年も避難を続けなければならないという現実があるから、その選択を続けさせてほしい、ただそれだけなのです。6年経った今も、全国でわかっているだけでも約10万人が避難を続けています。この事実が、復興は決して順調ではなく、震災は終わっていない、特に原子力災害による被災は今なお継続している事実を証明しているのではないでしょうか。
避難することを選択した以上、震災と原発事故について避難当事者としての視点から、今起きている事実を“伝えること”に力を注ぎたいと思っています。

浪江町・請戸地区のマリンパークなみえ屋上から直線で約6km向こう見える東京電力福島第一原発。

※写真は編集Rが撮影したもので、本文とは関係がありません。
(全て2017年2月4、5日撮影)

 

[『日本と再生 光と風のギガワット作戦』を観た日のカード]
Universe

スゴいカードを引いてしまいました! 無限の可能性、ですね。河合先生が監督された映画『日本と再生 光と風のギガワット作戦』を観て、先生のスケール感に改めて圧倒されました。そして世界がこんなにも進んでいることにも。もう1回観たいです。

[編集R]
ボイジャータロットは、生き方に前向きな思考・行動のアドバイスをくれるカード。ボイジャータロット国際認定リーダーの四十路女が、ボイジャータロットを通じて日々の出来事と気づきを綴ります。

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