40代を折り返し、あと数年で50代……。その先には、ぼんやり漠然とした不安がすぐそこに迫っているのだろうか。そう遠くない未来、自分とパートナーとの、『夫婦としての在り方』とは? にクローズアップするインタビュー連載。
第2弾は、結婚生活65年という中村メイコさん。夫・神津善行さんとの暮らしを振り返っていただきながら、夫婦円満の秘訣についてお聞きしました。
女優、歌手、タレント。1934年東京生まれ。2歳の時に映画「江戸っ子、健ちゃん」(P・C・L映画製作所/現東宝)にてデビュー。テレビには実験放送時代から出演し、数々のドラマ、バラエティ、映画に出演。1957年に作曲家 神津善行氏と結婚し一男二女を設け、「神津ファミリー」として親しまれる。
子育てが終わるまで、どんなご夫婦でしたか?
――神津善行さんと中村メイコさんは、おしどり夫婦として有名ですが、もうご結婚されてどのくらいですか?
1957年に結婚しましたので、もう65年ですね。結婚するまでに3年くらいお付き合いしていましたし、知り合ってからだともう70年近くになりますね。
でも、もうなんだか100年くらい一緒にいるような気がします。
――メイコさんが、女優として引く手あまただった十代のときに、睡眠不足でノイローゼになり、自殺未遂をしたときに、助けてくれたのがご主人だった……そんな大ラブロマンスの噂をお聞きしましたが。
死のうと思って海に入ったんですけれど、私、泳げたんですよね。
で、引き上げられたときに、ブレザーの内ポケットに、たまたま神津さんの電話番号が書かれたメモが入っていたんです。私は一人っ子でしたから、親に連絡が行くと、ものすごくショックを受けるだろうと思い、代わりに「このメモの電話番号に連絡してください」とお願いしたんです。すると、神津さんはすっ飛んで来てくれました。まだお付き合いする前でしたね。
これは、ラブロマンスになるのかしら。それより、運命と言うんでしょうかね。
――そうして、ご結婚されたのは、23歳の時。新婚当時はどんな感じだったのですか?
カップルらしい時間も持ちたくて、最初は2人暮らしをしたんですが、マスコミの取材が次々とありましたね。
例えば、朝は〈神津さんが仕事に出掛けるのをメイコさんがお見送りする写真を1枚〉という感じで、よく撮られていました。
「メイコさんはいつも明るく朗らかでいい奥さんですね」なんて言っていただきましたけれど、カメラの前だから、一生懸命ニコニコしてたんです。気を抜いていなかったので、ボロが出なくて良かったのかもしれませんけれど(笑)。
すぐに長女が生まれ、その後は神津の母と一緒に暮らすようになりました。次女、長男と3人子どもを産みましたが、妊娠中もずっと大きなお腹で、ラジオやら、舞台やら、仕事をしていましたね。だから安産だったのかもしれません。
――昭和の時代ですから、神津さんは家事育児には無関心だったのでは?
いえ、神津さんは、活発な女性が多い音楽大学育ちだったせいか、昔からレディファーストな人でした。
私の父は全く家事をしない人だったので、神津さんに「お米をといでおいたよ」なんて言われると、心臓が止まるほどびっくりして……。その頃の奥さんたちは、みんな同じだと思いますが、「ありがとうございます」と傷み入りましたね。
大家族のときは、お手伝いさんがいましたが、炊事洗濯は専業主婦の方と同じくらい頑張ってやっていました。
特に、娘たちは、幼稚園から高校までお弁当だったので、お弁当作りは欠かさなかったように思います。神津さんも子煩悩で、子どもたちが小学生のころは、学校まで車で送って行っていました。娘と一緒にホテルで朝食をとってから学校に送り届ける、なんてことをやっていました。
子どもを生んだのも早かったし、子どもたちは留学するなどして、早くにひとり立ちしたので、意外と早くに手が離れました。
――神津さんは、いいお父さんだったんですね。
ええ、本当に。
それと、もうひとつ神津さんのえらいところはね、私は結婚して以来、あの人が着替えているところを見たことがないんです。ましてや、お風呂上がりにパンツ一丁とか、バスタオル姿で出てきたことは、一度もないの。
気取り屋さん、というんでしょうかね。
私も、着替えているところやお化粧を落としているところは見られなくないんです。だから、帰ってお化粧を落とすときには「まつげ取っちゃいますよ~」って、おどけながら宣言するんです。すると「はいはい」と言って出て行ってくれます。
そういう距離感は、夫婦にとって、とても大切だと思うんです。
私は早くから、お姑さんと同居していたので、どうしたって、目上の人には一目置くじゃないですか。それもよかったのかもしれません。
家族でも少し他人行儀な部分を持つ。
礼儀とか、節度を持つということかな。
それは、家庭内がうまく回るうえで大切なことだと私は思っています。