独りになっても、40代で新たに出会いなんてあるのかしら……離婚を決断する前には、いろいろな不安や面倒が先立ちます。だから相手に失望しながらも現状のままの方もいるのではないでしょうか。でも前に踏み出さない限りは、本当の幸せを手にすることができないことを読者さんが教えてくれます。
命からがらの離婚、そして再婚
◯ 話してくれたのは...萬田久代さん(仮名)
最初の結婚は、これでもかというくらい、次々と人が経験しないような波瀾万丈を乗り越えてきた私がまさかの再婚で平和に安定し、何よりも夫と愛おしい日々を送っているなんて、今でも信じられないくらい。両親も友人もみんな驚いています。
大学卒業後はCAとして航空会社に勤務し、NY便ファーストクラスに乗務していたときに乗ってきたのが最初の夫でした。夫は身長低めの気取った印象。その時は軽く話す程度でしたが、私に一目惚れだったらしく、まだ個人情報の扱いが厳しくない時代だったので、その後も私のスケジュールを調べて、毎回ステイ先にシャンパンとフルーツを届けてきました。
デートをするようになると、すぐにプロポーズされました。優しいし、面白いし、金払いもいい。職業は整体師で、港区にビルを所有し、経済的にもゆとりがあったので、あまり深く夫のことを知らずに結婚を決めてしまいました。親には大反対されましたが、そうすると燃えるタイプなんですよね。持ちビルの一室が自宅で、結婚後はそこで義母も一緒に生活を始めました。義母は認知症で介護が必要なことはわかっていたのですが、それも受け入れての結婚でした。そのため25歳で円満退社をし、専業主婦になりました。
結婚後は整体院を手伝い、介護と家事で忙しい日々。CAの仕事は華やかに見えますが、人が嫌がることや汚い仕事も多々あって、若くて体力もあったので介護はへっちゃら。夫も優しくて、大切にしてくれていました。でも、義母の体中に痣があって、不信に思っていたのです。
結婚1年後のある日、夫が介護をしている様子を覗いたら、義母をつねっているのを見てしまったんです。私はその場で激怒りして、夫を責めました。すると夫の目の色がピッと変わり、拳骨で鼻を一撃。私は今でもその後遺症で鼻が曲がっています。それがDVの始まりでした。
でも殴った後は「ごめん」を繰り返し、猛反省する典型的なDV男。パターンがあって、夫を責めたり、叱るとDVスイッチが入る。殴られて顎関節症を患ったこともありました。逃げ出したい気持ちは山々でしたが、義母を放ってはおけなかったんですね。若かったし、まだピュアな気持ちが残っていたんだと思います。
それからはお守りのように、パスポートや薬などを入れた離婚準備セット鞄を用意。気分転換に、よく私の友人を家に呼んでご飯会をし、気を紛らわせていました。結婚を反対された両親にも友人にもDVのことは話せないままでした。子供に関しても、この人のDNAを断ち切るのが私のさだめだと思って、夫婦生活も拒みました。それも夫を怒らす原因の一つになっていました。
そして結婚7年後、ついに義母が亡くなりました。すぐに離婚に向けて行動を起こしました。慰謝料も何も欲しくなかったし、とにかく夫から離れたかった。でも離婚に応じてくれるとは思えず、すべてを両親に打ち明けて作戦を立てました。
荷物をまとめて出て行こうものならDVが始まることがわかっていたので、あらかじめ110番通報し警察を呼び、まず私が出て行きました。そうすると予想通りに夫は私の両親のところに行ってないかの確認の電話をしたんですね。夫側について夫のことをよく言えば話はスムーズに進むと前もって両親に話してあったので、父に「迷惑かけてごめんね。あいつ頭がおかしいよね。病院に入れて治療したほうがいい。なだめるために離婚届を書いて、それをあの子に見せよう」と言ってもらったんです。
そうすると案の定、夫はそれを信じて、「そうしよう」と快諾。私は父が用意してくれた民宿にしばらく寝泊まりし、母も来てくれました。でもストレスから額に縦ジワができ、出ていった日から3日間飲まず食わずで高熱にうなされました。
熱が下がって実家に戻り、離婚届にハンコをもらい、急いで区役所に向かいましたがすでにクローズしていて。夫に離婚届不受理を出されると離婚できなくなるので、もうドキドキして、翌朝区役所が開いたと同時に出しました。
そして家に戻って、ほっとしてテレビをつけたら、NYの9・11テロの映像が映し出され、こんなに大変なことがあるんだ、私なんてちっぽけな存在だ、これから再スタートで頑張ろうとポジティブに考えたのです。今思えば、弁護士を入れて調停すれば慰謝料も取れたでしょう。でもあの時の私はその時間すら必要ないと思うくらい、早く逃げたかったんです。
まずは生活するために仕事探し。運よく企業の社長秘書に雇ってもらえ、仕事をしながら以前から興味のあったメンタルコーチングやセラピー、占いなどの勉強を始めました。会社の仕事も多忙になる一方で、セラピーを副業で始めると、顧客が付き、休みなしに働き、体を壊してしまいました。すでに副業が軌道に乗っていたので退社し、ますます口コミで広がって、高収入を得るようになっていたんです。
一方で、結婚はもうこりごりと思っていましたが、恋人はすぐにでき、何人かとお付き合いもしました。が、この頃ありえない事件が勃発。信頼していた知人に騙されて詐欺にあい、全財産を失いました。ウン千万ですよ。悪いことは続くもので、付き合っていた男性が実は既婚者だと発覚、即行で別れたにも拘わらず、奥さんに駅のプラットフォームから突き落とされました。一命はとりとめましたが、大騒動。目撃者もいっぱいいて、訴えることを勧められましたが、けがも最小限で済み、面倒臭い人とは絡みたくないと何もせず。それよりも、試練を乗り越え、また生きていこうと前向きにさらに仕事に励みました。
そんなとき東日本大震災が起こったんです。当時「震災婚」が増えましたが、まさに私もその心境。誰かに頼りたい、平和で安心な暮らしがしたいと思うようになっていました。その年の大晦日の同級生の集まりで、「結婚したいから紹介して。でも軽いノリで」とみんなに伝えました。
すると翌月2グループを交えたご飯会に呼んでもらって、今の夫を紹介されました。8歳年上のバツイチで印刷関係の家業を継いでいます。2人ともお酒好きで明るく酔っぱらいながら、二次会まで行きました。気づくと夫は横にいて、ゴルフに行く約束をし、冗談で、結婚でもしましょうか? という話までしました。
一緒にいるとすごく落ち着く人。でも夫は本気だったようで、数日後に経歴を記した釣書を送ってきました。夫のことをよく知る友人からも評判上々で信頼できる人物のようでした。住んでいる場所が近かったのですが、仕事帰りに美味しいパンを届けてくれたりして、なんだか和みます。何より彼といると平和な気持ちになるのが決め手となり、とんとん拍子で再婚に至ったのです。43歳でした。
今はとにかく一緒にいます。共通の趣味のゴルフには月3、4回。お酒が好きなので、しょっちゅう外食も。毎日が楽しくて楽しくて。燃え上がるような恋愛で結婚したわけではないけれど、ゆるキャラお父さんとちゃっかり娘のような夫婦です。前の結婚のときは怒るのがわかっているのにも拘わらず元夫をよく責めましたが、とにかく今は誉める。夫は矢沢永吉の大ファンなんですが、「あなたのほうが100倍カッコいい」と、おはようを言うように「カッコいい」を口癖にしています(笑)。そしていつも一番の味方。冷静に考えて夫が悪くても「だよね」と同調します。
セラピーの顧客で辛辣なことを言うけどいつも笑っている人がいるんです。笑顔だと許せるの。だから私も笑いながら怒るようにしています。40代で夫という最大の味方に巡り合え、本当に幸せ。今秋、USオープンを観るためにNYに行くのを目下の楽しみにしています。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2017年掲載時のものです。