過熱する中受戦線の渦に巻き込まれる、3人のSTORY世代ママの連載小説がスタート!
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【第一話】2月・プロローグ
靴の裏から冷たさが立ち上ってくる固い廊下に、授業の終了を伝えるチャイムが鳴り響く。四年二組の教室の後ろで授業を参観していた親たちは、それを合図にドアに近いものから順に出てくる。
子供たちがそれぞれ一枚ずつ書いた『自分新聞』なるものが、廊下の壁に貼り出されていた。娘、沙優(さゆ)が書いたものを読んで、小向美典(こむかいみのり)は一人で苦笑する。三年生の三学期に千葉の浦安から転校してきたこと、新しい家には自分の部屋もあって嬉しいということを、カラフルなイラストとともに書いている。こうして同級生の親たちが目にするものだから、情けないような気恥ずかしいような気持ちになったが、今の生活が娘にとって悪いものではないのだと知れたのは嬉しい。
結婚して以来住んでいた浦安の賃貸の部屋を引き払い、ここに引っ越してきたのは一年前のこと。転校すると伝えた時にはぜったいに嫌だと大泣きした娘だったけれど、こんなふうに思えているのなら、きっとこの学校でもうまくやれているのだろうと美典はひとまずホッとする。
この後はホームルームだし帰ってもよさそうかなと階段のほうへ向かって廊下を歩きかけた時、教室から出てきた女性が視界に入った。このクラスの保護者で唯一仲良くしている神取玲子(かんどりれいこ)だった。玲子もこちらに気づくと、美典のそばに来た。
「美典さんも参観していたのね。気づかなかった」
黒とベージュのバイカラーのコートのボタンを留めながら、玲子はにこやかに言った。玲子とは一学期にあった最初の保護者会の後の茶話会で同じグループになったことがきっかけで話すようになった。前の小学校とは勝手が違ってわからないことだらけで、玲子にあれこれ教えてもらっているうちに、二人でランチをするほどの仲になった。
「遅れてきたら教室に入れそうになくて廊下にいたの」
「最後の保護者会だから、たくさん来ているわね」
「このクラスも、あと一カ月なのか」
ようやく慣れたところだというのにもうクラス替え、と美典は少し名残惜しい。
「いよいよ五年生だものね……あっ、そういえば」
何かを思い出したような表情になって、玲子はもっとそばに来るように手招きする。
「なに、どうしたの?」
美典は玲子に身体を寄せるようにし、小声で訊き返した。
「今年の六年生の結果が出たでしょう」
人混みから逃れるように階段を下りはじめたところで、玲子は言った。
「六年生の結果って?」
「ほら、チュウジュの結果よ」
そういわれて、ああ、と頷いたものの、『チュウジュ』が『中受』、つまり『中学受験』に変換されるまでに数秒かかる。
「たしかに、そんな時期ね」
「うちの学校から、開煌中(かいこうちゅう)に入る子、三人はいるよ。桜鳳中(おうほうちゅう)も一人。あと、恵比寿サイエンスでしょう、赤坂インターでしょう」
東京の私立中学の中でも最難関とされる男子校の三校が、開煌中、麻見谷中(あさみやちゅう)、武満中(たけみつちゅう)だ。桜鳳中は女子御三家のトップ。恵比寿サイエンスと赤坂インターは、御三家に並ぶほどの偏差値になりつつある人気の新興校。それくらいのことなら、さほど中学受験にくわしくない美典でもわかる。
「六年生も三クラスだから、九十人いないくらいか……その結果は、凄いってことよね?」
さりげなく探るように訊いてみると、まあね、と玲子は頷いた。
「パッとしなかった去年よりはいいみたいよ」
「この学校って、毎年三分の二が中学受験するって、転入する際に校長先生が教えてくれた。やっぱり教育熱心なご家庭が多いんだね。このあたりの公立中学だって悪くないって聞いたけど」
「悪くないどころか、隣町の中学からは都立トップ校にたくさん進学することで有名なのよ」
「だったら、公立に進学してもいいね」
美典が呑気にそう言ったが、玲子は眉間に深い皺を寄せた。
「残っている子たちがそれなりに優秀だから、内申を取るのが難しいんだってば。とくに男子はね」
「そっか。昔からそうよね」
「ノートもきれいに取って、ちゃんと提出物も出せる女子のほうが、内申点が高くなるって、あたしの時代からそうだったけど、いまはもっと顕著みたいよ。まあ、沙優ちゃんみたいなちゃんとした女子なら、公立からの高校受験でも大丈夫なんだろうけど、うちのぼんやり息子はどう考えても高校受験だと不利だから」
「沙優だって全然ちゃんとしていないわよ。にしても、もう今年の結果を知っているなんて、さすが玲子さん、情報通だね」
二月一日からはじまった首都圏の中学受験が一段落ついて、まだ数週間だというのに情報が早い。
「鉄(てつ)アカは合格者名を塾の壁に貼り出すでしょう。六年生ママから学年名簿を見せてもらってチェックしちゃった」
玲子はかわいらしくウィンクしてみせたが、そこまでするんだ、と美典は内心で驚く。大手塾でも有名中学校を中心に高い合格実績を出している鉄碧アカデミーに、小学一年から息子を通わせているという玲子の執念が感じられた。
そんな話をしながら靴箱のところまで来たところで、あらっ、と玲子が向こうのほうを見て片手を上げる。その視線の先を辿ると、顔が小さくてスタイルのいい女性がいて、数秒見つめてからそれが尾藤(びとう)エレナだとわかった。向こうも玲子に気づき、指先をひらひらと動かすようにして応えていた。
尾藤エレナの息子が隣のクラスにいるとは玲子から聞いていたが、エレナ本人を生で見るのは初めてだ。またね、と口の動きだけでエレナは言うようにして、急ぎ足で外に行ってしまう。
「テレビで見るよりもきれいね。顔小さい」
「案外あれで気さくなのよ」
「いいな、あんなきれいな人とお友達なんて」
「息子くんがアレルギー持っていて、うちに通ってくれているの。それで話すようになったんだよね。ママ友とランチしてるって話したら、今度わたしも誘ってほしいわって言ってたけど」
玲子はそう言ったが、わたしには遠い存在だわ、と思いながら美典は聞いていた。靴袋からフラットシューズを取り出して足先を滑り込ませ、ドアから舞い込んでくる風の冷たさに肩をすくめる。
公開授業を参観し終えた神取玲子は、美典と正門で別れた後に夫、翔一(しょういち)が経営するクリニックに向かった。午前診察しかない土曜なので翔一と一緒にランチをしようと約束しているからだ。道すがらの人気のカフェでカヌレをスタッフへの差し入れにいくつか買ってから、喧騒を避けて駒沢オリンピック公園の中を通り抜ける。この寒空の下でも、オリンピック記念塔の麓の広場は小さな親子連れで賑わっていた。
ここはいつも広々と開放感があっていいわ。
上京してまもない頃、玲子は東京の窮屈さに驚いた。都会で働きたいがために看護師の資格を取り、寮のある東京の病院に就職し、念願叶っての東京生活だったが、しかしその狭さに疲れてしまった。寮の部屋はユニットバスと小さなキッチンが付いているだけのウサギ小屋のようだったし、道を歩いていても人が多すぎるし、満員電車にもなかなか慣れなかった。無理をして細身のパンツやヒールの高い靴を履いていたせいもあり、どこにいても息が抜けないような気がしていた。
地元の札幌に戻りたいとは一度も考えなかったが、もう少し生活に余裕のあるスペースがほしいと思っていた。
前に働いていた病院で翔一と交際するようになり、はじめて彼の実家に連れていってもらった日に、駅から向かうまでに散歩がてら歩いたこの大きな公園を、玲子はとても気に入った。広々としていて、空が抜けるように高い。東京にある大きな公園はいくつか行ったことがあったが、ここが一番好きだと思った。ただ広いだけじゃなく、都会の洗練された豊かさもある。それを享受できる人々の、憩いの場なのだ。代々木公園や上野恩賜公園みたいに、観光客といったよそ者が少ないところもいい。自分が憧れていたものは、まさにこのエリアにある……そんなふうに思った。
翔一と結婚して、彼の実家から歩いていけるところに買った戸建の家で暮らしているいまでも、あの時に降りてきた予感めいた気持ちを不思議に思い出すことがある。
自由通りを駒沢大学駅のほうに向かって歩き、路地を入ったところにある『かんどり内科皮膚科クリニック』の正面ドアから中に入る。自動ドアが開くと受付にいたスタッフたちが玲子に気づいて笑顔を見せる。
「玲子さん、お疲れ様です」
すでに正面ドアには『診察外』の札が出ていて、待合室のソファにも患者さんの姿はない。
「もう終わった?」
「いま、最後の患者さんです」
最近入った若いスタッフが小声で言うので、玲子はすぐに受付の脇にあるドアを開けて入る。右に行くと診察室と処置室があり、カルテの整理をしていたナースたちが玲子に気づいて会釈した。玲子は左にあるスタッフルームに入って、中央に置かれたテーブルに差し入れの紙袋を置いてソファに腰を下ろした。
このスタッフルームはけっして広くはないけれど、伸び伸びできる。それは、この場所の主人がわたしだから。
業務が終わったようでナースとスタッフたちが入ってきて、玲子の差し入れに歓声を上げる。
「ここのカヌレ、食べてみたかったんです」
「玲子さんが持ってきてくれるもの、ぜったいにハズレがないですよね」
ここでは医師は翔一だけで、ナースもスタッフも全員女性だけだ。
「食いしん坊だから、美味しいもののアンテナは張ってるの」
玲子の言葉に、みんなは朗らかに笑う。この輪の中心にいるのは、わたしだ。スタッフたちに鷹揚な微笑みで応えながら、玲子は満ち足りた気持ちになる。
– – – –
息子の小学校から少し歩いたところにある駒沢通りで、尾藤エレナはハザードを出して停車しているブルーのインサイトを見つけて駆け寄ると、後ろのドアを開けて乗り込んだ。
「遅かったですね」
マネージャーの吉野が運転席から振り返って言った。
「ごめん、教室の奥に入っちゃったものだから途中で抜けにくくて。間に合う?」
「混んでなければ」
エレナがドアを閉めると、車は動き出した。
「今日って、現場に衣装あったわよね?」
「モエさんっていうスタイリストさんが選んでくれたものを二、三着用意してあるはずです」
「最近、彼女が選んだものってしっくり来ないんだよね」
「エレナさんには、テイストが軽くなってきているのかもですね。あのスタイリストさんって二十八歳だって言っていたから」
「あら、何が言いたいのよ?」
エレナがわざと意地悪に言い返すと、いやいや、と吉野は苦笑する。
「年齢にともなったイメージチェンジが必要だって言いたいんですよ。うまくシフトさせていくことも大事じゃないですか」
「まあね」
この事務所に入ってからずっとお世話になっていたマネージャーが管理側の仕事に異動することになり、去年から吉野が付いてくれるようになった。まだ三十そこそこの童顔で学ランを着せたら高校生に見えなくもなく、少し頼りないところはあるものの、やるべきことはやってくれるし、たいてい機嫌よく仕事をしているところがいい。前のマネージャーはいい仕事を取ってきてはくれたが、少し情緒不安定なのか気分のムラがあるのが面倒だった。
何より吉野がいいのは、車好きということで、道をよく知っていて運転がうまいところだ。速いだけではなく、乗っていて怖さを感じないから仕事にも集中できた。
テレビ局を退職する際にいくつかの芸能事務所からスカウトがあり、元局アナが多く所属しているところに決めようかと思っていたところ、最大手の一つである今の事務所『碓井(うすい)プロ』から声がかかった。エレナがキャスターを務めていた日の出テレビの平日夜のニュース番組『グッドプレス9』を、事務所の社長である碓井剛が気に入って観ていてくれたと聞いている。個人でメディアを持てる時代になったとはいえ、いまだに芸能界での事務所のパワーバランスが根強く残っていることは局アナの立場でも実感できたので、『碓井プロ』と契約することにしたのだった。フリーになって十年以上になるが、その選択は間違っていなかったと思う。FMのパーソナリティ、ファッション誌でのエッセイの連載。時々、テレビの特番にも呼んでもらえる。ライフワークバランスの取れたこのペースに、エレナは満足していた。
取材は都内のホテルで行われた。
「エレナさんの息子さんは小学四年生だとうかがっています。芸能人のご家庭だと小学受験されることが多い印象ですが、エレナさんはあえて公立の小学校にしたと『エレナ式マザリング 子育てじゃなく子育ち』の中で書かれていますよね。そこを今一度くわしくお聞かせいただけますか」
ライターの女性が笑顔で質問する。
「自分の人生の舵取りはできるだけ早く自分自身でできるようになったほうがいいというのが、わたしと夫の共通する気持ちでした。小学校はとりあえず公立に進んで、ある程度の自我が育った時に、自分で進路を決めてほしいと思っています」
窓際に立って撮影されながら、エレナはにこやかに語った。教育系雑誌の『どうする?いつ決める? 中学受験』という特集でのインタビューなので、ベージュのワンピースを選んだものの、少し地味すぎるだろうか。だけど他の二着は、自分には甘いテイストでいまいちだった。
「ということは、中学受験を考えていらっしゃるんですよね?」
「決めていないんですけど、そういう選択もできるような準備はしています」
「では、受験のための塾にも通われているんですね」
その質問には否定も肯定もせずに、笑顔でスルーする。
「息子の可能性はつねにいくつか用意しておいてあげたいとは思っています。その選択は彼自身が決めていけばいいのかなって」
なるほど、とカメラマンの向こうでライターと編集者がしきりに頷いていた。ふと腕時計を見ると、三時をすぎたところで、あっそうだ、と思い出す。
「ごめんなさい、大事なメールが来ているか確認してもいいですか」
「大丈夫ですよ。いったん休憩しましょう」
編集者に手を合わせるようにして、エレナは椅子の上に置いてあったバッグからスマホを取り出す。息子、類(るい)の模試の結果が、今日三時に塾のマイページにアップされていることになっているのを思い出し、待ちきれずにチェックする。
真っ先に見た四教科の偏差値が65。まずまずの結果なのでホッとしたものの、算数の偏差値が56 というのが目に飛び込んできた。前回から10以上も落ちているじゃないの? ほかの三教科がいつもよりよかったので総合的に悪くなかったが、算数の成績が急下降しているのは気になる。どうにかしなくちゃ。
「エレナさん、そろそろよろしいですか」
「大丈夫です。お待たせしました」
算数に特化した家庭教師をつけたほうがいいだろう。そんなことを考えながら、エレナはこわばりそうな口角を上げて微笑んだ。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年3号掲載時のものです。