“わが家”とは自分がいちばんほっとする居場所です。家族の思い出が詰まった住処であり、人によっては成功の証しでもある空間。それが突然、奪われてしまったら……。かけがえのない家を失ってきた女性たちは、その後、どのように立ち上がってきたのでしょうか。
▼あわせて読みたい
「家なんてなんとでもなります。生きてさえいれば」東日本大震災を被災したシンガーソングライターの立ち上がり方
髙山多磨さん 48歳・熊本県在住
「人吉温泉しらさぎ荘」女将
想像もしなかった人生経験の中でこそ
人間の愛と善意を深く実感しました
人間の愛と善意を深く実感しました
’20年7月3~4日、熊本南部での記録的豪雨によって、球磨川や支流が氾濫し、千ヘクタール以上(千代田区ぐらいの広さ)に浸水被害が及びました。人吉温泉しらさぎ荘は球磨川から少し離れた場所にありましたが、2階まで浸水。敷地内に3年前に新築したばかりの自宅も汚泥に埋まり、一時は知人宅に身を寄せました。
「道路が崩れ、鉄道の復旧もめどが立たない。ここでまた旅館を営むのはとても無理、東京に帰ろうと思っていました。ところが、銀行で親しい若女将に再会すると、『うちは再建する、きっと救済もある。やめずに一緒に頑張ろう』と励まされたんです。
同じ日に皮膚科に行くと、『10年前の今日に来てますね』と受付で言われて、旅館を継ぐ決意をして、人吉に嫁いだばかりのころの気持ちがよみがえってきました。おりしも、空には大きな虹がかかっていて。そんな背中を押されるような偶然が重なって、もういちど、ここで頑張ろうという気持ちが湧いてきました」。
それからは前を向くしかありません。みなし仮設住宅に入居し、再建に乗り出しました。旅館の建物は古かったこともあり、取り壊すしかなく、更地にして建て直すことに。「代々守ってきた建物を壊すのは、義父母や夫にとっては辛かっただろうと今になって思います」。
敷地の真ん中にある名水の湧く大きな池は、泥沼状になっていましたが、テレビ番組の企画で浄化してもらうことができ、綺麗な池がよみがえりました。市の仮設商店街ができると、惣菜店を営んで暮らしを支え、自宅も再建しました。
「負の感情は封印して、涙も流さず、無になって進みました。1年がたち、人吉の空に上がった花火を見たとき、はじめて、私たち頑張ったなと自分を褒めたい気持ちになれましたね。一から自分たちで旅館を造るとか、自宅を2回も建てるとか、想像もしていない人生になりました。でも、結果、理想を詰めこんだ愛おしい宝物のような旅館を造ることができました。今があるのは、多くの方に励まされ、助けていただいてたどり着けた奇跡です。人間って愛や善意で成り立っているのだと実感しました。また、被災前は、家族一緒に暮らせることや、お客様をお迎えすることなど、当たり前と思っていたことが、実はものすごくありがたいことだったんだと気づきました。同時に、物は一瞬にしてなくなるけれど、楽しい思い出は消えないとも思うように。だからこそ、お客様にはもちろん、支えてくれるスタッフにとっても、ここを、楽しい思い出をたくさん作れる場所にしていきたいと思っているんです」。
撮影/BOCO 取材/秋元恵美 ※情報は2024年4月号掲載時のものです。