4年に一度の祭典で世界中を感動の渦に巻き込むオリンピアン。引退後、皆が指導者や競技に関わる職業に就くわけではなく、選ぶ道は人それぞれ。でも新たな道を決めるきっかけとなったのは、やはり「選手」だったからこそ見えた景色、出会い、思いだったようです。
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【画像】オリンピアン井本さん、現役時代と引退後の充実の日々の特別カット集
井本直歩子さん 48歳・東京都在住
(株)ゴールドウイン 社外取締役 他
競泳 4×200mリレー ’96 アトランタ五輪 4位
選手時代に感じた 貧富の差。
国連職員を経て、
すべては子どもの未来のために
国連職員を経て、
すべては子どもの未来のために
元競泳五輪代表の井本直歩子さんが将来について考えるようになったのは、中学生のころでした。日本代表として着用する水着やジャージを十分すぎるほど支給され、いざ国際大会に向かうと、そこで目にしたのは、ゴーグルさえつけずにレースに出る途上国の選手たち。
「私たちはこんなに物があふれているのに……」と格差について考えるようになった井本さんは、その後、紛争を逃れて大会に出場するボスニアの選手や、ルワンダ虐殺についての新聞記事を見聞きする中で、深い衝撃を受けました。
「トレーニングに集中できる日常や、不自由なく大会に出場できる恵まれた自分の状況を考えると、やるせない気持ちになりました。オリンピックに出場できたら、その後は途上国のために働きたいと思ったんです」。
勉強していないことで自分の将来の選択肢を狭めたくないという思いから、水泳と学業を両立しながら、20歳のときにアトランタ五輪に出場。800mリレーで4位入賞を果たすも、更なる高みを目指して現役続行を決断しました。アスリート奨学金がもらえるアメリカの大学へ留学し、以前にも増して水泳と学業に打ち込み、迎えたシドニー五輪選考会。わずかに派遣標準タイムに及ばなかったものの、自己ベストを更新し、競技生活に終止符を打ちました。
引退後は、スポーツライター、水泳コーチ、参議院議員秘書など、さまざまな仕事を経験しました。しかし、「この仕事で貧困に苦しむ人はなくならない」といった視点が井本さんの中から消えることはなく、英国の大学院留学を経て30歳で国連児童基金(ユニセフ)職員として教育分野の支援活動をスタート。
「内戦下のスリランカでは避難民キャンプ内で学校再開の支援を行い、ハイチでは大地震発生後の緊急支援に携わり、マリではエボラ出血熱の感染があったため、子どもたちに手洗いの重要性を教えるなど衛生教育にも従事しました。とにかく日常を取り戻すことが心のケアにとっても特効薬です。子どもたちの居場所である学校を、いかに早く再開させるかということを使命としていました」。
’21年になり、ユニセフを休職して帰国すると、当時東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の会長だった森喜朗氏の、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」という発言が問題視され、井本さんのところに取材依頼が殺到しました。
「20年ぶりの日本でしたが、変わっていないんだなという印象。でも変わらないままでいいのだろうかと自問自答し、昔スポーツ界にいたことや、国際機関で学んできたことを生かして、何か役に立てることがあるのではないかと思ったんです。たとえ何もできなかったとしても、変わらない状況を黙認する自分ではいたくありませんでした」。
その後、組織委員会に設けられたジェンダー平等推進チームのアドバイザーに就任し、ジェンダーについての理解を深める重要性を実感したため、東京五輪後に社団法人SDGs in Sportsを立ち上げ、さまざまな社会課題解決のための活動を行っています。さらに今年6月、株式会社ゴールドウインの社外取締役にも就任。多岐にわたる活動の根底には、常に「子どもたちのため」という思いがあります。
「ユニセフで仕事をして、子どもたちがしっかり生きられる社会にしなければならないという気持ちが強くなりました。木に例えると、教育が幹となる部分にあり、ジェンダー平等や気候変動についての枝が伸びていっている感じです。豊かな未来を手渡せるよう、引き続き力を尽くしていきたいと思います」。
「環境負荷が懸念されるアパレルメーカーとして、地球や社会の課題に向き合う姿勢に共感。思いを共有していければと思います。ゴールドウインがダイバーシティの面でも業界をリードできるよう、より良い会社作りに貢献できれば嬉しいです」と井本さん。
撮影/BOCO 取材/篠原亜由美 ※情報は2024年9月号掲載時のものです。