自己実現、生活のため、誰かを幸せにしたい……。働く目的はそれぞれでも「好き」を仕事にすることは間違いなく私たちの人生を彩ってくれる。20代で「ヴァンテーヌ」という雑誌に魅了され、切磋琢磨しながら走り続け、時代を切り拓いてきた2人が誌上、初対談!
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大草直子さんは「ジャケット×ブラウス×パンツ」で、春の新しい生活を始める!
★ ◇ オシャレの根幹を教えてくれた「ヴァンテーヌ」という雑誌
★ ◇ 第二の青春時代が到来!
★ ◇ 3人の働くママとして家族を巻き込みながら、育てとの両立に奔走
「好き」を仕事にするって楽じゃばいけど、確かに幸せ

◇ オシャレの根幹を教えてくれた「ヴァンテーヌ」という雑誌
竹村さん(以下 竹)
大草さんは、メディアやSNSで見ない日はないくらいファッションからライフスタイルまで幅広く活躍されていて、本当にアグレッシブ。同世代のレジェンド!
大草さん(以下 大)
私は、スタイリング、執筆、SNSとツールは違えど「ファッションはあなたをより素敵に見せてくれる」を伝えることが使命だと思っていて。人は裸で外を歩けないから、洋服を着るって寝食と同じくらいエッセンシャルなこと。はまちゃんは〝スタイリスト〟を25年以上貫いていて、それが凄いと思う!
竹
いやいや、私にはそれしかできなかっただけ(笑)。10代の頃、「日本経済が世界を引っ張るのだ」と、勇んで経済学部に入ったけど、入学した瞬間、周りの優秀さに圧倒されて即方向転換、己と向き合うことに。本当に好きなことを仕事にしようと考えた時、雑誌が好きだなって。中でも大好きだったのが「ヴァンテーヌ」。しわしわになるまで隅々まで読み込んでた。それで編集部に電話して「バイト募集していませんか?」って直談判したの。その編集部に大草さんがいらして。
大
社会人1年目だった。一緒に夜な夜な撮影で使う靴に底貼りしたり、新橋で飲んだよね。「ヴァンテーヌ」は“オシャレに必要なのは知性”というコンセプト。当時はバブルの香りも残っていて購買を煽る雑誌が多く、オシャレは特別な人=家柄が良くてお金持ちのものという概念があって、その世界に少し疲れてた。そんな中、「ヴァンテーヌ」は“去年の服だって素敵に着られるし、みんなが赤を着ていても一人ネイビーでもいいのよ”ってオシャレの居場所を作ってくれた。
竹
私にとってもそうだった。配色やヘア・メーク、コーディネート……、全てが理路整然としていて、極貧の学生の私がやっと手に入れたアイテムをどう活用&応用するか教えてくれたし、「オシャレはアイデア」なんだって常にワクワクさせてくれた。
◇ 第二の青春時代が到来!
竹
その後の黒歴史を話すと(笑)、就職活動もしたけど、「なんか違う」を繰り返しながら、卒業を迎えてしまって。雑誌は好きだけど、編集者というよりは服にまみれて一日中コーデのことを考えていたい。それってスタイリストなんじゃないかって。それでとある編集部に直談判したら、アシスタントの口ききをしてもらえました。でも、できなすぎて叱られっぱなし。何をしても失敗するから、結局クビになっちゃった。その時は絶望でした。
大
時代的にも厳しい業界だったしね。私もフリーランスとして30代で「Grazia」に関わらせていただいていた頃は、頑張っても頑張っても雑誌のクオリティに届かず、実力のなさを目の当たりにした。他のページに比べて、ビジュアルも構成も甘いと感じて。そこから7年経って初めて、当時の編集長に褒めてもらえたの。7年で初めてですよ(笑)。でも、自分はまだまだって奮起できたのは逆に良かった。はまちゃんは、「CLASSY.」→「VERY」→「STORY」とずっと光文社畑よね?
竹
その後も諦められずにメディアを転々としていた時に、「CLASSY.」でライターをしていた友人が声をかけてくれて。そこから光文社でスタイリストとしてお手伝いさせてもらうように。編集、ライター、私の3人は世代もリアル。こんな企画をやりたい、次はこう変えてみよう! って朝から晩まで一緒に夢を語り合ってた。駆け出しの新人チームだったから、最初は細かいページばかり。でもだんだん読者アンケートの順位が良くなってきて。そこから特集をやらせてもらい、憧れの巻頭ページを担当して……。そうやって一つずつ形になっていくのが楽しくて。毎日辛くても夢で溢れてた。私にとって第二の青春。
大
当時の「CLASSY.」では、はま子チームはエポックメーキングな存在。新「CLASSY.」の礎を作ったと思ってる。私も「ヴァンテーヌ」時代は情熱も命も時間も……。自分の全てを捧げてきた5年間だった。本当に幸せでしたね。
◇ 3人の働くママとして家族を巻き込みながら、育てとの両立に奔走
大
私もはまちゃんも3人子どもがいて、30代はほぼ記憶がなくない? はまちゃん、幼い三男くんをおんぶして撮影していたよね。
竹
あの時は毎日がカオスで、最初は快く手伝ってくれていた義母も、さすがに堪忍袋の緒が切れてコーデ中に激怒して電話が。でも仕事をおいて帰るわけにいかない。やるせない気持ちでトイレで号泣したことも。
大
子どもが3人いたら、一旦キャリアストップするっていう選択肢もあったわけだけど、はまちゃんは、無理なことを羅列せず「どうしたら続けられるか」に心を砕いていた。私も当時は家族みんながヘトヘトでパンク寸前。これはまずいといって家族会議して、前夫が専業主夫、私が稼ぐことを選択した。これは〝ファミリーキャリア=家族で作っていくキャリア〟と考えたの。38歳で家のローンを組む印鑑を押した時は、震えたわ。無我夢中で駆け抜けてきた人生だったけど、辞めようと思ったことは一度もなかった。何にも代えがたい達成感、共有感、充足感……。生まれ変わってもこの仕事に就くだろうなって思う。まさに「天職」ですね。
大草直子さん 1972年生まれ(52歳)
22歳 立教大学卒業後、婦人画報社(当時)に入社。「25ans」で半年間→「Vingtaine(ヴァンテーヌ)」で5年間勤務
27歳 サルサダンスの夢のため南米へ。同時にフリーに。
28歳 結婚・第1子出産。
30代 光文社の「CLASSY.」、カタログディレクション・雑誌「mi-mollet」のディレクター、雑誌「Grazia」(休刊中)の巻頭ページを担当するようになり「VERY」「Oggi」などの女性誌 にも活躍の場を広げる。
31歳 離婚。
33歳 再婚、第2子出産。
37歳 初めての著書を出版し、10万部近くの大ヒット。
38歳 第3子出産。
39歳 「DRESS」のファッションディレクターに。
42歳「mi-mollet」編集長。
46歳 自社メディア「AMARC」を立ち上げる。
52歳 離婚。
現在 自分のブランドを立ち上げたり、海外で見つけた素敵なものを輸入したり、さまざまな分野で活動中。
竹村はま子さん 1974年生まれ(51歳)
20歳 慶應義塾大学在学中に雑誌「ヴァンテーヌ」のアルバイトを始める。
22歳 大学卒業後スタイリストアシスタントとなる。
23歳 さまざまなメディアでアルバイト。
24歳 大学の同期だったライターに声をかけられ光文社「CLASSY.」でスタイリストとして仕事を始める。
27歳 結婚・第1子出産。
28歳 第2子出産。
32歳 第3子出産。
現在 雑誌「STORY」「VERY」を中心に活躍。

〈大草さん〉ジャケット好きの大草さんが究極の1品として作ったご自身のブランド〝NO.b〟のジャケットは、試着した人すべてを虜にするという超名品。パリのトラッドをイメージしたシックなミッドナイトネイビー。ジャケット¥74,800パンツ¥40,700(ともにNO.b/AMARC LIFE STORE)インナー(j.)、サンダル(PIERRE HARDY)その他は大草さん私物。
〈竹村さん〉ジャケット(CURRENTAGE)竹村さん私物。タンクトップ¥24,200(ザ サードマガジン/サードマガジン)パンツ¥35,200(ウィム ガゼット/ウィム ガゼット 玉川髙島屋S・C店)パンプス¥125,400(JW アンダーソン/LE PHIL NEWoMan新宿店)その他は竹村さん私物。
撮影/鏑木 穣(SIGNO) ヘア・メーク/コン イルミ(ROI) 取材/石川 恵 ※情報は2025年4月号掲載時のものです。