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Lifestyle40代にはまだLOVEもドラマもあっていい!

経済力のためだけに、愛のない結婚生活を続けるのは可能…?

結婚とお金は切っても切り離せない関係です。だからといって、経済力のためだけで愛のない結婚生活を続けるのは折角の人生を棒に振ることになりかねません。今回もドラマチックすぎる読者さんに登場していただきます。

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目次 ★ 夫婦の幸せを考える

夫婦の幸せを考える

◯ 話してくれたのは...中井実帆さん(仮名)

東京生まれ。政治家を父に持ち何不自由ない幼少期を過ごす。18歳でアメリカ留学、帰国後メーカーに就職。27歳で結婚するも32歳で離婚。32歳~38歳まで脳脊髄液減少症を患う。39歳で長女出産。中井美穂さん似の潑剌美人。
夫 大阪生まれ。大学卒業後商社に勤務。幼少の頃より野球で活躍し、現在も大学の野球部で教えるスポーツマン。真面目で明るい性格。

幼少の頃から政治家の父の寵愛を受けて箱入りで育ちました。お米もお肉も卵も……一流のものを取り寄せ、子供の頃から仕立てた洋服を着る生活が当たり前。でも、物心ついた時期に両親が離婚。父はすぐに再婚し、中学生の頃から母と一緒に生活していました。それでも父とはよく会って、変わらず可愛がってくれました。

一方でじっとしていられない性格で、高校卒業後はアメリカ留学を経て、メーカーに就職し営業職でバリバリ働きました。と言うのも結婚に夢や希望はなく、何かを身に付けて1人楽しく生きていきたいと思っていたんです。子供が欲しいとも思わなかったですね。

求婚してくれる人もいたのですが、結婚するなら医者か弁護士ね、などと高飛車なことを周囲に宣言していたら、27歳のとき、よく行くレストランの同じく常連だった弁護士の元夫と本当に出会ったんです。元夫は私の前向きなところを気に入り、すぐにプロポーズ。私は嫌いではなかったけれど、愛はなく、条件の良い前夫を気に入った父を喜ばせたいのと、義務的な気持ちのみで結婚しました。

元夫は社会的地位も高く、仕事もできる人でしたが、結婚するとすぐに思いやりに欠ける人だとわかりました。常に自分が大事な人です。そして典型的な〝冬彦〟さんでした。まさにマザコン。毎週土曜日に地方の義母から宅配便が届き、1人前の手作り弁当と1週間分のチオビタドリンク入り。夫は毎朝それを飲むのが日課でした。

仕事は重要案件をいっぱい抱えていたため、毎日帰宅は朝方で数時間寝て9時には出社と超多忙。夫の希望通り、私は結婚を機に仕事を辞めていたので毎日退屈で、次第に買物に走るようになりました。経済的には恵まれ、十分なお小遣いを貰っていたし、欲しいものは何でも買ってくれました。「40万円のバッグ買っていい?」と電話をすると「いいよ」と即答。服にバッグに靴に、家には封の開いていない紙袋が溢れるようになっていました。

やがて結婚3年目にNYに転勤。夫は相変わらずでしたが、慣れない土地での仕事にストレスを抱え、怒鳴ったり、物を投げたりするようになり、私は一層ストレスが溜まっていました。

でもNYと言う土地に刺激を受け、以前から興味のあった演技やダンスのワークショップに参加。そこからオフブロードウエイの舞台に立ち、日本人用テレビ番組のCMに出演するなど、伝える仕事がしたいと夢が広がり、夫とは冷えた関係でしたが外では楽しい日々を過ごしていました。

その一方で、体力だけは自信があったのに、徐々に体調が低下していくのが目に見えてわかってきました。大きな血の塊を出血したり、貧血を起こすこともしばしば。でもはじまったばかりの仕事にわくわくしていたので健康に関しては2の次3の次で大したことないと思い、放っておいたんです。でも、これが後に闘病生活に入る兆しでした。さらに貧血の回数も増えていきました。

ある日お風呂上がりに酷い貧血を起こし、脱衣場でうずくまっていたら、夫が「そこどいてくれる?」と。このひと言がトドメになり離婚を決意しました。しかし相手は弁護士。うまく離婚に持って行くために、夫が嫌がる私が働く回数や外にいる時間を増やしました。

案の定、「離婚してでも働きたいの?」と不満を漏らしてきたので、「はいそうです」と答えました。そこから話し合いをするようになり、結果帰国後、慰謝料も要求せず、スムーズに離婚に至ることができました。

心から解放されましたね。日本では、NYで芽生えた夢をかなえるため、アナウンサー学校に通い始めました。あの頃は本当にイキイキしていたと思います。ところがそれに反して体調が悪化の一途をたどり、ばたんばたんと倒れて意識を失うことがしょっちゅう起こるようになっていました。病院にも行きましたが原因不明。視界も狭くなり気分が優れない日々が続いていました。

そして離婚から1年後、麻布十番駅で電車を降りる瞬間に右半身からバタンと倒れると同時に意識を失い、救急車で病院に運ばれました。そのまま1カ月間の検査入院。でも原因がわからず、次の病院、次の病院と検査を続けました。結果、4カ月後に信頼できる病院と医師に出会い、脳脊髄液減少症という脳の髄液が首の袂から漏れてしまうため、めまい、吐き気、頭痛など365日24時間悪阻の状態が続く難病だとわかったのです。

症例が非常に少ない病気で薬も治療法もなく、耐えるしかないのに、徐々に症状はひどくなり、家で寝たり、起きたりの生活になっていきました。当時母は再婚してアメリカ在住、私と継母との関係が悪化していたため父とは断絶。家族の支えはなく、もちろん働くこともできず、夢も諦めざる負えない。治療方法が少ない中、信頼できると選んだ医師を信じて、毎日注射をしに病院に通いました

もちろんお金もかかるので、貯金を切り崩しながらの1人の闘病生活。車を売り、結婚中購入した封の開けていないバッグや靴やら売れるものは全て売って食費や治療費に充てました。一生分泣きましたね。二度と笑うこともなければ一生働けないと憂い、本当に辛かった。

でも、唯一の有難かったことが、友人たちが手を差し伸べてくれ、代わる代わる食料を持って来てくれたり、少し体調がいいときには食事に連れて行ってくれたこと。その友人の中に今の夫がいました

実は25歳で出会い、当時から付き合ってほしい、結婚してほしいと言い続けてくれた人でした。でも夫は会社員で、当時医者と弁護士としか結婚しないと宣言していた私は目にも止まらなかった。離婚後、闘病中の噂を聞いて駆けつけてくれ、6年間毎日お見舞いに来てくれ、再びプロポーズしてくれました。

でも結婚自体をする気にはとてもなれなくて断りましたが、自然の成り行きで一緒に住むようになったのです。この頃から、注射が効いたのか、気持ちが前向きになってきたのか、どん底だった体調が徐々に回復し、症状がマシになってきたのです。

そんな頃妊娠がわかりました。ずっと子供はいらないと思っていましたが、来るべき時が来たなと実感。翌年39歳で長女出産。出産と同時に全ての症状が消え、病気が治ったのです。狐につままれたような不思議さですが、難病ゆえ、何が効いて何がよかったのかはわかりません。ただ、今も特に雨の日は軽い頭痛や吐き気を感じることはありますが、1度も激しい症状が出ることなく元気で過ごしています。

今は3人家族で、平穏に暮らしています。いちばん大事なのは健康、そして心穏やかに過ごすこと。健康さえあれば何でもできるし、お互い自分自身が満たされていれば、重箱の隅をつつくような争いはなくなります。平穏に過ごすことで、結婚生活もうまくいくものだと実感。

物で表面ばかりを満たしても幸せにはなれません。闘病中、愛情を与えてくれた夫や友人への恩返しは心身ともに元気になって、感謝することだということに心から気づけたとき、気持ちが前向きになり少しずつ良くなっていったのだと思っています。

夫は月曜日から金曜日は会社、土日は大学で野球を教えています。最初は土日も留守にすることに文句を言い続けていましたが、彼にとってその時間があることで心を平穏に保てることに途中で気づいたときから、どうぞと尊重することにしました。その代わり1日だけは、野球に子供を連れて行くか、両親に預けるかをして、どちらか私の自由にさせてもらうように約束しました。そしてその日は夢の実現に向けて、まずはイベントなどのMCを始めました。

離婚も闘病生活も起こるべくして起こった。苦しかった出来事も、全ては私が私らしく生きるために導かれたことですね。

取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2015年掲載時のものです。

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