どんなにお金を稼いできても、〝オレ様夫〟が許される時代は終わりました。今はどこもかしこも人材難。私たちが勇気と決意をもてば、自立できるんです。今月は、新しい幸せを見つけた40代のお話です。
自己中夫は捨ててしまおう!
◯ 話してくれたのは...明 慈英さん(仮名)
大学2年生のとき、妹がよく買物に行っていたセレクトショップの販売員だった6歳年上の元夫と出会いました。彼は私にひとめぼれで、ぐんぐんアプローチされましたが、彼もいたので最初は考えもしなかったのですが、「俺と付き合うんだ。彼とは別れろ」とすごく強引で、でもそんなところに魅かれていったんです。
お付き合いをするようになっても主導権を握るタイプ。すぐにプロポーズされましたが、両親は職業が気に入らないうえ、「エゴイスト」だと反対されました。
でも彼はやり手で、交際中に自分のお店をオープン。センスの良さとPRのうまさで、瞬く間に人気店になり、その状況を見ていた両親も折れて、あれよあれよと20歳で結納、短大卒業後21歳で結婚しました。実は交際中に、元夫の勧めでお店を手伝うようになり、思いがけず販売員の資格も取りました。企業に就職するつもりでしたが、やってみると面白くて私が接客すると売れるんです。今思うと、そんな才覚にも目を付けていたんだと思います。
結婚生活と同時に本格的にお店に出るようになり、バブルの当時はどんどんお客さんが来て超多忙。売り上げも上り調子で、スタッフも増え、2号店、3号店とオープン。私は1店舗を任されていました。
一方で、結婚直後に妊娠。それでも出産前日までお店で働き、即行復帰。そのせいか、すぐに母乳も出なくなっていました。
元夫と言えば、一層自分勝手が酷くなり、自分の目標や利益になることしかやらない人で他が見えなくなります。その反面、仕事に対して一直線で不言実行、惜しみなく努力し、開拓を続けました。バブル崩壊後も順調で、気づけばお店は6店舗に。そんなだから、家事や子育ては一切やりません。それに元夫が嫌いな車の運転は全部私任せで、乳飲み子を抱えて大荷物であっても持ってくれないのは当然、さらに自分の荷物をその重い荷物に入れて、自分は手ぶらで知らん顔という人。子育ても家事も雑用も私が何もかもをしないといけない生活でした。
家で過ごすときも、自分の世界に没頭し、自らするカタログ作成の撮影のための暗室を作り、マニアックに凝ったり、大音量で音楽を聴き、映画を観たりで、家では元夫の後ろ姿しか見たことがなかったですね。悶々としていましたが、イクメンなんて言葉もなかったし、仕方ない、私さえ我慢すればと思っていました。
ところが30歳の頃、突然角膜が剝がれ私は目が開けられなくなり、激痛に襲われました。病院に運ばれると角膜剝離で、過労が原因。3日間目をつぶって激痛に耐えながら治しました。その頃は夜遅くまで働き、合間にご飯作り、早朝に子供のお弁当作りの後はお店に行く……という生活で睡眠時間が4時間程度。思う存分寝られる日は年に1週間もなくて、常に疲れていました。
目が見えるようになった翌日から、また同じ生活の繰り返し。すると数ヶ月後に再発。前回は3日で見えるようになったため、4日目に元夫が「店に出れるな?」と言ってきました。まだ目が開けられず、「無理」と言うと「3日も休ませてやったぞ。チェッ」と吐き捨て、部屋を出ていきました。
私は失明するかもしれないと心底不安でしょうがないときなのに、「大丈夫か」と心配する言葉はなく、私の気持ちなんてつゆともわからない人。仕事の人間関係はこなすけど、それ以外は対私も含め、人とのコミュニケーションを取るのが嫌いで、社交性のない人でした。
一事が万事、悪気があるというより、人の気持ちや状況を察することができないんです。振り返ると、精神障害の病気だったのではないかと思いますが、定かではありません。でもなぜか離婚を考えたことはなく、私の中で離婚は卑怯なことだと思っていたんです。意味があって出会い、成長しながら歩み寄る学習の場が結婚だと勘違いしていました。
ずっとぎくしゃくしていましたが、元夫から家を建てると言われたときは嬉しかった。結果的に、高級住宅地に90坪の土地を買って建てたのが40歳のとき。ところが建てる段になって、元夫の好き勝手が浮き彫りに。元夫がやりたいように作った家は、落ちそうなガラスの階段、反対したけど作った地下室、角がない家……など、寛げないかっこいいばかりの家でした。私にとっては気が休まらない家が建ちました。
新しい家に住み始めたある日、小さな雑事を元夫に頼んだら、「俺は仕事してるから」と。カチンときて「私も仕事をしている」と言い返すと「お前の仕事は仕事のうちに入らない。俺の仕事の中身を見てみろ」って言われたんです。
この人は自分のことしか見えない、リスペクトも感謝もないと空しくなり、このときから完全に私は心を閉ざしました。唯一落ち着けたリビングルームで寝るようにし、夜の生活も完全拒否しました。
如実に態度に表すと、さすがに元夫も気づき、ゴミ出しなど不自然に家事をやるようになったんですが、その後に必ず「俺がやった。すごいだろう」がついて、かえって腹立たしい。元夫は若いときは仕事に明け暮れて、年取ったら洗剤のCMのような老夫婦になるつもりだったと言うのですが、それまでが酷すぎると、そうはなれないと私は言いました。
一度離れた心はやすやすと戻らず、そんな私の態度に業を煮やした元夫は、「もう俺は無理。ほかに愛する人を見つけるから別れよう」と言いました。そこまで考えてなかった私は動揺しましたが、親友が「離婚しても、普通に朝日は上るし、朝ごはんは食べられるし、何も変わらないよ。来るのは幸せだけ」と言ってくれたんです。
その言葉を聞いたとき、急に目の前が晴れ、離婚を承諾しました。すると元夫から、子供の学費やかかる費用は全部出してくれること、今までのお給料の半分を毎月払うので経営は一緒にやって1店舗は私に任すことを提案してくれました。給料が半分になっても、今までその中で学費を出していたので、十分な金額。
唯一心配だったのが大学受験を控えていた長女のこと。そこで長女の方向性が決まるまでは私と子供がそのまま住み続け、元夫が出ていくことになりました。同じ生活を続けながら、元夫は家にいなくて、お店で会って仕事をするという状態です。
これが思いのほか快適でした。離れるとお互いの関係もスムーズで、結婚していたときより自然な関係を保てたんです。子供にとっても、不穏な空気の家庭の方がストレスで、仕事のパートナーとしてうまくやっている両親を見て安心したようでした。離婚後の方が元夫に感謝です。離婚して8年経った今もその関係は続いています。
やがて長女は大学入学をきっかけに家を出て、私も一人暮らしを始めました。離婚から3年目に12歳年下の飲食関係の仕事をする今の彼と出会いました。友人との食事会で知り合い、自然に付き合うように。元夫とは真逆のタイプで、遠慮もいらないし、気を遣うこともなく、リラックスしていられます。
でも、一番気をつけていることは甘えることとやってもらうこと。元夫には何もかもをやりすぎたことが反省でした。よく妹から「お姉ちゃんは何でもやってしまうからダメ」と言われていました。料理も子育ても仕事も1人3役完璧にやってしまう。主婦たるものこうあるべきという美徳があって、そうじゃないと落ち込んでいました。隙がない女性に入り込めないのが男性だとやっとわかりました。当時は目いっぱいの日々でしたが、今はラクーにして、彼は年下だけど存分に甘えて肩の力が抜けています。
結婚するかしないかはどうでもよくて、「ごめん。できなかった」と言える関係に心地よさを感じています。
取材/安田真里 イラスト/あずみ虫 ※情報は2018年掲載時のものです。