【前回まで】千葉・浦安のマンションから夫の実家に近い世田谷・駒沢に引っ越してきた美典(40歳)は、娘の中学受験に対し、さほど気負いもなかったはずだったが、大手塾の模試で偏差値60を超える娘の成績に頰が緩む。一方、看護師から医者の妻へと玉の輿にのり、その幸せに浸っていた玲子(45歳)は、義父母の言葉から自身の唯一の使命は、夫と同様に長男を慶應に入れることだと思い知るのだった。
【第三話】 小5・4月
五年生になってはじめての保護者会に五分ほど遅れてしまった。パートの交代の時間になっても遅番さんが来ないうえに、タイミング悪く客がたくさん入ってきて、抜けるに抜けられなかった。静かに後ろの戸を開けて入ると女性の先生が教壇で話しており、遅刻してきた美典をちらりと見て、お座りください、と促すように頷きかけながらも話を続ける。『小向沙優』と名札の置かれた席は窓際の後ろから二番目にあって、そこに美典は座った。
黒板には先生の名前であろう、小田原愛、と書かれている。
「五年生というのは繊細で不安定な年齢なんですね。身体的には大きくなっていきますが、実際の中身はまだまだ。自尊心を高めてあげながら道を間違わないように見守り、誘導してあげることというのは口で言うよりも簡単ではありません。わたくしにも二十八になる息子と今年大学を卒業した娘が一人ずつおります。いつでも相談してください」
子育て経験のあるベテランの先生が担任になったようでよかった。四年生の時の担任が悪かったわけではないが、まだ若くて正直頼りないと思うこともあった。先生には当たり外れがある。それは運でしかない。普通なら五、六年生はクラス替えがなく担任もそのままというから、この先生に二年間お世話になることになるのだろう。窓外を見ると、春めいた日差しの下で葉桜が風に揺れていた。
先生の話がプリントにそって一学期の行事の説明に移ったところで顔を上げた時、斜め前でこちらを振り返る人がいることに気づく。見ると、玲子だった。
同じクラスなんだ! 先生から見えないように下のほうで小さく手を振る玲子に、美典も満面の笑みで人差し指と中指をさりげなく動かして応えた。玲子さんとまた同じクラスになれるなんてついている。誰も知り合いがいなかったらまたママ友になってくれそうな人に声をかけなくてはと思っていた。さりげなく教室を見渡す。平日の十四時半からという時間帯にもかかわらず、教室の席はほとんど埋まっている。この地域って本当に教育に熱心だわ。数人ではあるものの父親らしき男性の姿もあった。在宅でできる仕事が増えて、こんな時間でも学校に来られる父親が増えたのだろう。
いまは共働きの家庭が多くなったし、子供のことは妻任せという考え方は古い。とは言われているけれど、実際のところ、うちの夫は週に二、三は在宅勤務できるようになったにもかかわらず、学校の保護者会に自分が参加するという発想はない。もちろん美典がパートではなくフルタイムで働くことになれば役割分担も変わるのだろうと思うし、いまでも頼めば調整してくれるとは思うが、いつどこに行けばいい、何をすればいい、と子供のおつかいみたいに訊かれてそれに答えなくてはならない……その過程が一瞬にして想像できてしまうから、もういい、わたしが行く、となってしまう。
よくないとわかっている。夫にも父親として、沙優のことに参加させてあげるべきなのだろう。それだって彼の権利だ。そう思う一方で、どうしてわたしだけが動いて、夫にそこまでお膳立てしなければならないのかとモヤモヤしてしまう。
一時間きっかりで保護者会が終わった。時間に正確なところも担任として好印象だ。みんなが席を立ちはじめたので、美典も立ち上がり玲子の席の横に立った。
「また一緒になれたわね」
「よかったー。担任の先生も良さそうだし。今月の運をこれで使い果たしちゃったかも」
「美典さん、大袈裟よ。たしかに、当たりの先生っぽいね」
玲子はプリントを挟んだクリアファイルをバッグにしまいながら、左のほうに顔を向けて、ちょっと待ってて、と立ち上がる。どこに行くのかと見ていると、中央の後ろの席から立ち上がろうとしていた人に声をかけた。
その人の顔を見て、美典はハッとする。縁の大きいまん丸の眼鏡をかけていたが尾藤エレナだとわかった。玲子とエレナはどこにでもいるママ友のように楽しげに声を交わしていた。二人とも美人だし絵になる。ドラマの一幕を切り取ったみたいだ。うっとりするような気持ちで眺めていると、玲子がこちらを指さし、エレナも美典のほうを見るので思わず背筋を伸ばす。玲子が手招きするので慌てて駆け寄った。
「こちら、小向沙優ちゃんのママの美典さん。美典さん、こちらは淡田類くんのママの……って、知ってるよね」
「知って……いや、存じ上げています。尾藤エレナさん……あっ、尾藤さんじゃないか」
有名人を目の前にして緊張してしまい、美典はぎこちなく頭を下げて挨拶すると、よろしくお願いします、とエレナはゆったりとした様子で微笑んだ。
「美典さんは、一年前に千葉から引っ越してきたのよ」
玲子が紹介してくれる。
「そうなのね。あっ、もしかして……同じ塾じゃないかしら?」
エレナに言われ、そうですか? と美典は聞き返す。塾に何人か同じ小学校の子が通っているのは講師から聞いていたが、詳しくは知らなかった。
「うちは、駅近の啓明セミナーっていうところなんですけど」
「やっぱりそうだ。うちも啓セミなの。四年に上がる時に転校生の女の子がうちの塾に入ってきたらしいって類が話していた。あの子、男の子には珍しく目ざといのよね」
近くで聞くエレナの声は低音で聞きやすくて、耳に優しい。やっぱりキャスターをする人って素敵な声なのね。しかもユリの花のような香りまでする。
「二人とも啓セミなんだね。エレナさん、塾でも情報交換できるママ友がほしいって言ってたじゃん」
尾藤エレナがママ友なんて恐れ多くて、いやいやいや、と美典は尻込みしたのだが、エレナのほうが眼鏡を外して顔を綻ばせた。
「そうなのよ。塾に知り合いがまったくいなくて困っていたの」
「塾の保護者会には茶話会なんてないし、同じ学校や習い事とか共通した所属がないと、話すきっかけすらないものね。お二人ともこの後少し時間ない? せっかくだし、ちょっとお茶でもどう?」
「わたしはこの後何もないけど……」
美典は言って、エレナの顔を窺う。エレナは腕時計を見てから、笑顔で頷いた。
「一時間くらいなら大丈夫そう」
「オッケー。エレナさんもいるし個室がいいわよね」
「べつに個室じゃなくても」
「個室じゃないけど、奥まっているスペースがある店があったから、そこに電話してみる」
玲子は、有能なマネージャーのようにその場でスマホを耳に当てると、十分後に行くと席を押さえた。
玲子が連れていってくれたのは、小学校から歩いて五分ほどの、駒沢通りから少し入ったところにある『バディーズ』という店だった。アイドリングタイムがなく、カフェとしても使えるレストランなのだと玲子が教えてくれた。広いホールの奥、太い柱に隠れるような席で半個室のようになっていた。これなら顔が知られているエレナも気楽だろう。
「ここ、気になっていたのよ。初めて入ったけど、いい感じね」
エレナも気に入った様子で表紙が木でできたメニューを開く。テーブルを挟んだ両側ともベンチシートになっていて、少し厚手のリネンのクッションが置かれていた。玲子と美典が並び、その向かいにエレナ。玲子はホットコーヒーを、エレナはローズヒップティーを、美典はカフェオレを店員に注文すると、ねえ、さっきの話の続き、と玲子は切り出した。
「啓セミってどう? 手厚いって言うよね?」
「まだ一年しか通っていないけど、面倒見は良さそうよ」
美典は言った。
「人数が少ないから、生徒全員に目が行き届いている印象はあるかしら」
「こう言ったらアレだけど、類くんは鉄アカに入れているものだと思ってたから、ちょっと意外だった」
「そう?」
「だって算数オリンピックのファイナルに進んだこともあるんでしょう。そんなに優秀なら」
「算数オリンピック?」
美典は玲子とエレナを交互に見て訊いた。
「算数のできる優秀な子たちが受ける大会。年齢層によっていくつか分かれているんだけど、ファイナルに進めるのは勝ち抜いた精鋭だけ。類くんはそのファイナリストになったことがあるんだから」
玲子の説明を聞いて、すごい、と美典は感嘆の声をこぼした。
「それがね、この間なんて得意の算数でポカして偏差値10以上も落ちたんだから」
「そんなことってあるのね」
玲子は驚く。
「所詮は子供のすることだもの。でも算数は好きみたい。ほかはさっぱりよ」
「そういうのを聞くと親近感湧いちゃう」
素直に言った美典を、エレナは微笑ましげに見ていた。
「じつは小三の夏だったかな、鉄アカを受けたのよね。合格したんだけど辞退したの。通うとなるとバスか車でしょう。過保護かもしれないけど、まだ低学年だったから一人でバスに乗って通わせるのが不安で。だからといって、わたしが毎回車で送迎というのも現実的じゃなくて」
「まあね、類くんはイケメンで目立つからな。でも、淡田家なら送迎の人を雇えるでしょう?」
エレナの夫である淡田哲次はビル管理などの不動産関連を手広くやっているらしい新興企業の経営者だ。エレナと結婚する前にも女優やモデルと噂になったことがあって情報番組などでも名前を聞くから、ビジネスにうとい美典でも知っていた。
淡田は若い頃に一度結婚しているが離婚していて、その後に数々の美女と浮名を流しており、その末に一生のパートナーとして選んだのが尾藤エレナというのがゴシップの論調だろう。
「誰でもいいってわけにはいかないから、選ぶのが難しいの。類が小さい頃にレギュラーでお願いしていたシッターさんがいたんだけど、バッグを何点か盗んでいたのがわかって解雇したことがあるのよね」
「盗み? そんなことってあるんですか?」
驚いた美典に、エレナは神妙そうに頷いた。
「知り合いが教えてくれた老舗のシッター事務所から派遣されてきて、わたしも何人か面接した上で選んだ人だったから信用しきっていて、そのことが発覚した時にものすごくショックだった。わたしが気づいていないだけで、バッグ以外にも盗まれているのかもしれない。それ以来、家に出入りできる人を雇うのが怖くなってしまって」
「やだ、それは怖い。エレナさん、エルメスとかいっぱい持っていそうだもんね」
「バーキンが一つなくなっていて、犯行に気づいたの。横流ししていたみたい。セリーヌとか、グッチとか、わかりやすいハイブランドばかり狙われた。玲子さんのそれ、エルメスのボリードでしょう。いい色ね」
玲子の横に置かれた鮮やかなピンクのバッグは、そうか、エルメスなのか。エレナが持っている大きなブラウンのバッグは、最近インスタでおしゃれなインフルエンサーがこぞって持っているザ・ロウのものだろう。かっこいいなと思って検索してみたら、八十万円とあり、そっとサイトを閉じたことがあった。
「ありがとう。それにしても経済的に余裕があっても外注できないのは痛いわね」
「平気な顔で悪事に手を染める人っているなんて……」
美典の言葉に、玲子が深く頷いた。
「そうよ。美典さんも人が良さそうだから気をつけて」
気をつけるもなにも、我が家には盗まれるようなものなどなくて、美典は苦笑でごまかす。通販で買ったキルティングのトートバッグが急にみすぼらしく感じられて、さりげなく背中で隠すようにした。
—
二人とも話しやすくて仲良くなれそうだと感じて、エレナは思いのほか嬉しかった。仕事絡みの人間関係の中だと、どうしても尾藤エレナとしてふるまうことになるが、子供を通じて知り合った彼女たちの前では、淡田エレナとしていられるようでそれも新鮮だった。もちろん、きっと二人の目にもキャスターの尾藤エレナとして映っているに違いないが、もっともプライベートな領域である息子について誰かと気軽に話せることは、エレナにとって日常的なことではない。これがいわゆる、ママ友、というものなのか。その言葉の響きが少しくすぐったい。
玲子とは、二年ほど前から付き合いがあった。アレルギー体質の類が通っている皮膚科が、玲子の夫のクリニックで、たまたま立ち寄ったらしい玲子と息子の真翔と待合室で会い、子供同士が話し始めたことから、エレナと玲子も挨拶したのがきっかけだった。玲子の夫である翔一先生は慶應医学部出身で、しかも背が高くてルックスもいいほうだった。
競争率の高そうな男の妻というのは、一様に揺るぎない自信を漂わせている。それを謙虚さや慎ましさというオブラートに包んでそれっぽく見えないようにする女と、自分が持っているすべてをオーラにして羨望をほしいままにして陶然としている女がいる。
玲子は後者だ。そういう意味では、玲子は自分と似ているとエレナは思う。芸能界によくいるタイプだから馴染みやすく、それでいて夫のクリニックをたまに手伝うくらいの主婦というのがギラギラしすぎていなくて、エレナには居心地よかった。
「もっとおしゃべりしたかったな。美典さんと引き合わせてくれた玲子さんには感謝ね」
クリニックに顔を出すという玲子とは店の前で別れて、同じ方向を歩くことになった美典に、エレナは言った。
「わたしこそ楽しかったです。お二人の話を聞いていたら、わたしって何にも知らないんだなって思い知らされた感じですけど」
美典は言った。こちらは、玲子とも違っていて、どこにでもいそうな普通っぽい女性だ。四十歳といっていたから、エレナより九歳下なので、子供の同級生のママといってもずいぶんと若い。そのせいもあって、エレナと玲子の会話を聞いて、素朴な表情で目を丸くしている姿はかわいらしく、好ましかった。そこで前のめりに聞きたがったり、自分を高見せしようとしたりする人が案外多いと知っているから、美典の一歩引いたような反応や雰囲気に清潔感も覚えた。
「美典さん、丁寧語じゃなくていいよ」
「ほんと……に? 緊張しちゃうな」
「普通に話してくれたほうが嬉しい」
「エレナさんとこうして話しているのも信じられないくらいで」
「子供も同じ塾なんだし、仲良くしてよ」
「こちらこそ。にしても、類くんみたいに優秀なお子さんもいるのかと思ったら、あの塾への期待値が上がっちゃいそう」
「たいしたものじゃないんだってば。そうだ、連絡先教えてもらえる?」
エレナは立ち止まり、トレンチコートからスマホを出した。
「もちろん!」
美典もバッグからスマホを出し、連絡先を交換した。
「うち、このマンションだから、ここで」
「さすが、駒沢ハレクラニにお住まいなんだ」
「けっこう古いけど見晴らしがいいのが気に入ってるの。よかったら、玲子さんと一緒にうちに遊びに来てよ。これでも料理は得意だから」
「いいんですか? 楽しみ!」
「じゃあ、連絡するわね」
心から喜んでいるとわかる笑顔の美典に手を振りつつ、エレナは石畳のアプローチを進んだ。
イラスト/緒方 環 ※情報は2024年5月号掲載時のものです。