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今年の私たちのCHALLENGE STORY3.11は「大人になった、東日本大震災の子ども達」

STORY4月号では毎年、東日本大震災をテーマに取り上げています。今年のタイトルは「大人になった、東日本大震災の子ども達」。2011年3月11日、小中高生だった子ども達も今は学生、社会人に成長しました。あのとき、そしてあのときの大人達はどう映っていたのか? 大人になり、語る言葉を持った彼・彼女達に取材しました。編集Rがインタビューさせていただいた、当時大川小学校5年生だった只野哲也さんの記事を本誌に+αした形でweb用に全文掲載します。

大川小学校での被災を経て現在は語り部に。「何でもない日常の尊さに気づいてほしいから」
――只野哲也さん(「大川伝承の会」語り部ガイド、大学生・19歳)

津波により74名の児童と10名の教師が犠牲となった石巻市立大川小学校。当時5年生だった只野哲也さんは、当時校庭にいて助かったわずか4名の生存者のひとり。現在は大学生となり、「大川伝承の会」語り部ガイドとして当時を語り継いでいます。

「帰りの会がまさに終わろうとするとき、ぐらっと来ました。その後、校庭に避難。式台に集まって話している先生もいれば、慌てて校庭に飛び出した児童のために上着を取りに行く先生もいました。地震で具合が悪くなって吐いている低学年の子を上級生と一緒にケアしている先生もいました。最初は整列していたのですが徐々に乱れ、気づいたら円になっていました。約50分経ち、教頭先生の指示で三角地と呼ばれる近くの高台に避難を開始しました。人ひとり通れるくらいの自転車置き場の通用口から1列になって道路に出ましたが、途中、行き止まりで引き返したり。先頭の僕達を先導していた先生が県道を曲がった角から引き返してきたとき、民家が土煙を上げて粉砕されるのが見えました。それからはもうダッシュです。引き返して来る僕達を不思議そうに見ている子や腰を抜かしている子もいました。叫び声は不思議と耳に入らず、心臓と体に響く轟音だけが聞こえました。2、3m走って振り返ると津波が見え、もう少しで山に登れる、というところで大勢の人がのしかかるような圧力を感じて気絶しました」。

どう流されたか、木に引っかかるような体勢で目が覚めました。小学校の方を見ると民家はことごとく消え、学校と診療所だけが見えました。波も音もない静かな時間。ひと晩を過ごし、同級生に助け出されました。

「友達は流された冷蔵庫にしがみついて助かったそうです。彼は右腕を骨折していて、僕は眼が腫れていました。助けを求めて歩く裸足に棘や枝が刺さりましたが、痛いよりも寒い。口もカラカラでした。これからもあんなに寒い思いをすることはないでしょう。星がキレイだったという証言もあるようですが、そんな余裕はありませんでした」。

地震直後に誰かが買い溜め、今となっては水際に打ち上げられたお菓子と雪を食べて凌ぎました。

避難所で祖母と再会を果たしたとき、混乱して只野さんに泣きついた祖母の第一声は「未捺(みな)はどこにいるの?」。一緒に逃げたはずの3年生だった妹の未捺さん、お祖父さん、お母さんはひと月しないうちに遺体で見つかりました。遺体安置所には何十と棺が並び、何とも言えない独特の生臭い匂いで満たされていたといいます。

「顔に傷がついているということもなく、特に妹は揺らしたら起きるんじゃないかと思うくらいでした。悲しい感じは当時はしませんでした。なぜなら棺の中の人達は全員知っている人だったから。モノとして見ないとおかしくなりそうでした」。

被災直後から、只野さんは自分が経験したことを包み隠さず語りました。そして気づけば大川小学校を残したいと口にしていました。地域にはさまざまな思いが交錯しており、当時、大川小学校を遺構として保存したいと言える大人はいませんでした。’14年4月、只野さんと思いを同じくする大川小学校の卒業生が協力を申し出、仙台で意見発表しました。

「この“チーム大川”がなければ僕は今この場所にいないかもしれません。僕の考えが正解なのか間違っているのか、ずっと自信を持てずにやって来たので」。

’15年3月、遺構として残すには5年を目途に地域の意思決定をしなければならないという石巻市の意向を受け、地元で集会が開かれました。

「直接、地元の人の意見を聞くとあり、これまでになく緊張しました。『壊してほしい』という意見を直に聞いて自分が受け入れられるか、傷ついて『もういいや』となるか。壊してほしいという意見が断然多かったので多数決なら負ける。だからここで言わないと、と思いました」。

120人の出席者による投票結果は、①解体37人、②一部保存3人、③すべて保存57人、④その他+白紙23人となり、’16年3月に大川小学校を遺構として保存する正式決定に結び付きました。

「石巻市は5年で決めてと言いましたが、議論は深まっていませんでした。だから多数決で決めるのはイヤだなという思いであの場にいました。この間、語り部ガイドをしたとき、ピースして自撮りしている人がいました。そのとき、『学校の前でピースしてる奴がいるから残したくない』という意見が理解できました。楽しむ場所ではないんじゃないか? ここは僕にとっても妹や同級生が亡くなった場所です。交通事故現場でピースして写真撮りますか?って話ですよね」。

遺構として残すことが決定したものの課題は山積しています。

「小学校の何を残すのか? どう残すのか? 何を伝えるのか? 解体を望んだ人達の思いも汲み取った形にしたい。議論が遮断されているので、意見を出し合う機会が必要だと思います。防災の重要性、命の大切さを伝える場所であると同時に、大川の歴史やどんなに素晴らしい場所だったか、ここで生まれ生きてきた人たちにとってはふるさとを思い出せる場所にもしたい。そして、ありふれた日常は当たり前じゃないことも伝えたい。僕自身、朝晩のごはんや友達、送り迎えしてもらって無事に家や学校に着くのが当たり前だった日常があの日を境にガラッと変わって、違う世界に来た感覚は今もあります。今日いる人が明日はいない。想像もつかないことが起きたとき、そういう気持ちでいれば対応できるかもしれない。失ってから気づくのでは遅い。後悔してほしくないんです」。

ありふれた日常とは?

「特別なことは何もないです。日々があって、校舎があって、地域があって、みんなの暮らしがあって。震災は僕からいろいろなものを奪っていったけど、さまざまな人と繋がるきっかけにもなった。新しい繋がりをこれからも増やしていきたいです」。

只野さんの目に大人達はどう映ったのでしょうか?

「先生方に恨みはありません。むしろ感謝のほうが大きい。あの日、僕達は自ら行動したのではなく、指示を待っていた。どうすれば学校が児童・生徒を守れるのか考え、伝えていくことが大切だと思います。小中高の防災意識を改善することができれば大川小学校の犠牲が意義あるものになります。事故の真相解明のために設けられた第三者検証委員会でも証言しましたが、教育委員会が聞き取りメモや資料を破棄するなど、理解に苦しむ行動も多々ありました。大人の力がバラバラだった。大人には話し合ってほしいです。児童の遺族が起こした訴訟は今後、最高裁で争われることになりますが、遺族はお金のためではないと思います。ただ真実を知りたい。その思いを叶えるべく、あらゆる大人に尽力してもらいたいです」。

将来の夢を訊ねると――。

「いろいろ言ってきましたが今は警察官。子どものころから『警察24時』が好きだったことと(笑)、ずっと柔道をやってきたのでそれが活かせる仕事がいいかなと。僕も体を張って人のためになりたいです」。

※写真はすべて編集Rが撮影。2011年12月25日、大川小学校周辺にて。

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