お笑い芸能事務所・タイタンの社長として爆笑問題や、昨年M-1グランプリを制したウエストランドの活躍を後押しする太田光代さん。小学生のころは医者を目指しつつ、家族のために料理を作り「夢はお嫁さんだった」彼女。お酒にまつわる武勇伝や、社会問題に鋭く切り込み時勢に迎合しない爆笑問題をマネージメントする手腕から、豪快な破天荒闘士なのかと思いきや、素顔はいたって可愛いらしい女性。夫と他愛ない会話を楽しむ日常を夢見るキュートな一面も。この連載では、芸人としては超一流だけれど夫としてのスキルには大々的に?(はてな)マークがつく太田光さんとの結婚生活に密着。「人生やり直すなら早い方がいいから、別れるならさっさと次に行きたい」と言い続けている光代社長に、光さんは見放されずに済むのでしょうか? 母と息子、その永遠に尊くも因果な関係が夫婦関係に及ぼす影響とは?
義母が義父に放った痛烈な一言に、「その通り!!!」
年齢を重ねて太田がお父さんに似てきたと言いましたが、父の晩年、お母さんが言った言葉で“それな!”過ぎる一言があったのを今でも覚えています。
太田のように、お父さんも80歳を過ぎた頃から「もう死にたい」「すぐに死にたい」とことあるごとに言っていたんです。
太田の父(以下、父)は社長で、ある程度の年までバリバリ会社経営に携わっていた人。太田の母(以下、母)はずっと専業主婦で父を支えていました。その父が仕事を引退して家にいるようになって、ある時転んで肩を脱臼しました。手術したけど、痛いからと言ってリハビリをやらなかったら、固まっちゃって動かせなくなってしまったんです。2回手術をしたけれど、やはり痛いからと言ってリハビリをしないので結局あまり動けなくなってしまいました。
でも、少しでも動かないと本当に寝たきりになってしまうので、お母さんが毎日散歩に連れ出そうとしたり、色々と苦労しているのに、父があまりに「死にたい」「俺は自殺する!」と繰り返すので母も堪忍袋の緒が切れてしまった。
とうとう
「そんなに体も動かないのに、どうやって死ぬのよ!!」って言ったんです。
そこで父はあろうことか、「誰かに手伝ってもらう」と返したんですよ。
私が、“誰かに・・・?”と考えていたら、母が「それは自殺じゃなくて殺人でしょ。手伝わせるってことは、他人に殺人をさせるってことだからね」とズバッと言い放ち、さすがの父も言い返せませんでした。
私は内心(お母さん、おっしゃる通り!)と喝采しましたね。
お義母さんと私。 どこか似ているから夫が甘えるのかも
ここぞという時にズバッと言うところは、お母さんと私、ちょっと似ているんです。30年以上も前ですが、太田と付き合い始めた頃に、私のことを自分の母親に似ているかもしれない、と彼も言っていました。そう、甘えてるの(笑)。
太田はいわゆる幸せな家庭に育った人。社長の息子さんで、私から見ると何不自由なく育っていて、お母様は家庭にいて主婦を頑張っていたような女性でした。そのお母さんが亡くなる数年前、本気かどうかわかりませんが「光は、私の育て方が悪かったのかしらね」と言っていたんです。
太田家はご親戚も明るい方々で、うちの夫だけ隅っこに一人でいて何もしゃべらない。そんな息子をお母様は、「あの子は人間観察してるのよ」と言っていたようですが、もう少し社会性を持たせるように育てればよかった、という思いは確かにあったのかもしれません。
特に晩年、ご自分の老後のことに関して「光に任せていたら、何も進まないから」「光代さんに一任するから決めて」と言っていました。それでも、嫁の立場からあちらのお母様の先のことに関することは聞きづらいし、タッチしにくいから夫に何度となく「お母様はこの先どうされたいのか、どういう意向なのか聞いてほしい」と頼むわけです。
でも絶対聞いてくれないの(笑)。
どうやら男の人って、自分の母親は大丈夫だと思っちゃうみたいなんですよ。
私のお友達でケアマネージャーをやっている人がいるんですが、母親を要介護認定する場合、女性は淡々と現実を見て受け入れて対応する。でも男性は「うちの母がそんなはずない」「大丈夫なはずだから」と認めたがらないケースが多いらしいです。お家に帰すのか、病院に留まらせるのかなどなど、決めなきゃいけない時にも優柔不断になってしまうんだとか。
お母さん方にしてみれば迷惑ですよ。「私、大丈夫じゃないわ」と思うでしょう。太田のお母様も強い方だから、骨折した時も病院でリハビリをして治ったんだけれど、2年後にもう片方の足も骨折。前の時のリハビリほど成果が出ない。
つかまっていないと歩けないし、自宅に戻って生活するのは無理だなとなった時、お母さんご本人はやっぱりスパッと言いました。「光代さんに一任しているのだから、早く決めて」
息子の太田にしてみれば、あの家はお父さんが作った家、お母さんの宝物のはず、と思い込んでいて。だからお母さんは家で暮らしたいはず! と考える。でも女の人はそんな頑固に生きてないんです。無理だと思ったら諦めるんですよ。それで「光に任せていたらいつまで経っても話が進まない」とおっしゃって、本格的に私に一任されました。
私たちの自宅の近所で、太田が帰りにも寄ったりできるような施設を何件かピックアップして見て回って決めました。
結局はその施設に長い間住むことなく、義母は81歳で亡くなってしまいました。最期は太田と一緒に音楽を聴いて過ごして、越路吹雪の「愛の讃歌」が終わったと同時に息を引き取りました。その時、私は海外にいて看取ってあげることができなかったのが心残りで、ずっと引っかかっていたんです。
母親にとって「最期は息子だけがいればいい」 それが本望?
でも、私の知り合いが言うんです。
「私、死ぬ時にはもう旦那は要らないの。息子だけいればいい」って。
「ほとんどの女はそうだよ。息子と2人で最期の時を迎えるって最高じゃない」「お母様は一番良い最期だったと思う。私もそうしたい」って言われた時に少しだけ心が軽くなりました。
ただ、そう考えると、私の最期は誰と過ごすのが幸せなの?
その頃から余計に私の人生にとっての「夫という存在」について考え込み始めました。
撮影/河内 彩 ヘア・メーク/清水寛之 取材/柏崎恵理