母の最期は、人それぞれ違います。そばで見送れた人もいれば、会えないまま別れを迎えた人もいる。時間の重さも、受け止め方も、同じものはひとつとしてありません。それでも胸に残るのは、確かに過ごした時間と、その人の記憶。それぞれのかたちで抱えながら、いまを生きている人の物語です。
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土屋アンナさん 42歳
ファッションモデル、歌手、俳優
整理なんてできるはずがない。
それだけ大事な人だったんだから
それだけ大事な人だったんだから
亡くなる1年半前に母(眞弓さん)と韓国へ向かう日が、すべての始まりでした。空港で突然吐いて、そのまま体が震え出し、痙攣のような状態に。「これは本当にやばい」と、直感でわかったほどの異変でした。
その少し前から、後ろ姿を見て「足、こんなに細かったっけ」と感じていたことはあったものの、そこまで深刻には考えておらず。母にすぐ病院へ行くように伝え、検査を受けたその日に電話がかかってきて、告げられたのは、膵臓がんステージ4。その言葉を聞いたとき、感情が止まったような感覚で「テン、テン、テン、テン…」と言葉が出ませんでした。
「このことを聞いた母はどんな思いで受け止めたのだろう」とそればかりが頭から離れず。私自身は現実を受け入れられないままでした。しかし「母が死ぬかもしれない」と認識した瞬間、気持ちは一気に切り替わり、「どうやって生かすか」という考えに。膵臓移植はできないのか、ほかに方法はないのか、できることを片っ端から調べ、〝寿命を延ばす〟ために動き続けました。
最初は抗がん剤治療を嫌がっていた母も、余命宣告を受けてからは「やる」と決断。しかし、薬の影響で味覚も変わり、食べることが好きな人なのに「美味しくない」と口にすることも増えていきました。それでも「食べたい」という気持ちだけは最後まで変わらなかったのですが、食べたいのに食べられない状態が続きます。さらに血管が細く、針を打った箇所が黒くなっていき、苦しそうな姿を見るのが辛くて「もう抗がん剤はやめようか」と伝えました。
仕事をこなしながら、4人の子どもの支度と食事、そして病院に通う日々。帰ってほしくなさそうに見えても「ごめん、そろそろ行かなきゃ」と言って病院を出る。本当はもっと母と一緒にいたかったけど、家では子どもたちが「ママいつ帰ってくるの?」と待っていて。自分の生活も止められないなかで、何を優先するべきか、その間で揺れ続けていました。
亡くなる3カ月前には、はっきりと痩せていくのがわかりました。病気の進行には段階があって、少し良くなったように見えては、また悪くなる。その繰り返しでした。
余命1カ月を切ったところで自宅に戻り、母が一人にならないように、誰かがそばに寄り添って過ごしました。
最後の日は、亡くなる数時間前まで隣で寝ていて。朝ごはんを用意して、子どものお弁当を作るために、息子に任せて一度家に戻ることに。帰る前に母が寝ている顔を見て「あとでね」と声をかけて家を出ました。そのあとヘルパーさんが寝ている母の体勢を整えて。少し経って様子を見たときには、もう息をしていなかったといいます。苦しそうにしていた様子はなく、ただ静かなままだったと。ほんの数分の出来事でした。
最後に見た横顔や、手を握った感触は、今でもはっきり残っています。「私に最後を見せないために、わざとだったのかな」そう感じました。
「亡くなって何日経っても、整理はつかない。だからこそ、無理に整理をつけようとしなくてもいいと思うんです。それは、その人を大事に思っているからこそ起こることだから」。
一人になったときや、お風呂に入っているとき、不意に蘇ることがある。それでも、「こうしてあげればよかった」とは思わないようにして。「やれることは、全部やった」といえます。
「ママにとっては、幸せな最期だったんじゃないかなって思っていて。みんなに囲まれて、自分の家で、苦しむこともなく旅立っていって。『完璧な最期だったでしょ?』って言っている気がします」。
ドレス¥150,700※参考価格パンツ¥69,300(ともにエムエスジーエム)ピアス/本人私物
撮影/須藤敬一 ヘア・メーク/山口理沙(+nine)スタイリスト/沢田結衣(UM)取材/小出真梨子 ※情報は2026年7月号掲載時のものです。




















